そうした問題は何も今に始まったことではない。
いったいそれなら口語と文語というものの区別がどこにあるか。―そんなものはない。
現在の短歌が使っておる文語というものは、これは厳格な意味においての文語ではない。文法からいっても、造語法からいっても、厳格な文語あるいは標準文法というものからしたならばでたらめの日本語だと、そういった批評が文法学者なんかからはしばしばされるのでありますが、それは私はそのとおりだと思う。その点からいえば、今の短歌の用語というものは口語でもなく、文語でもなく、一種異様なもので得体の知れないものだと、悪く取ればそうもいえましょうが、また考え方によっては、一つのそういう古い言葉も生きておるし、口語の発想法もはいっておるし、新たに形式化されておる新しい用語ということができるんじゃないか。これも程度の問題で、それが全く日本語として通じないものというふうになればとにかく、まあともかく日本語として通じておる。ただその要素が非常に新旧取りまぜで、悪くいえばぬえ的、よくいえば両者の長を取った新しい一つの領域というものを私は持っているんじゃないかと思います。 土屋文明 『新編 短歌入門』
昭和22年に行われた講演「短歌の現在および将来について」の話なので、もう70年近く前のものだ。けれども、現在の状況にもそのまま当てはまるのではないか。
そして、この「一種異様」「得体の知れない」「ぬえ的」という点を嫌って、完全な口語で(そういうものがあるかどうかは別問題として)歌を詠もうとする若手が増えているのだろう。