2015年07月25日

大辻隆弘著 『アララギの脊梁』


青磁社評論シリーズ2。
迢空について調べることがあって、再読。

1996年から2008年までに書かれた評論29編が収められている。
「アララギ」から「未来」へとつながる流れがよく見えてくる内容だ。

大辻さんの評論には、どれも必ず新鮮な発見がある。しかも、きちんとした論拠が示されているので、読者を納得させる力を持っている。

迢空は「古代人の感覚」という実証不可能なものを持ち出すことによって、島木赤彦や斎藤茂吉の万葉享受が、実は近代という時代が生み出したものに過ぎないことを示そうとしていたのではなかったか。
子規の「短歌革新」とは、つまるところ「和歌の俳句化」だったのである。
会津八一が、奇跡的に、あるいは偶然にみずからの歌のなかに保存していたのは、大正期のアララギがふるい落としていった豊かな「子規万葉」の世界であった。
山中智恵子の第三句は、私たちの韻律感を激しくゆさぶってくる。それは、歌に豊穣な時間を回復させるために、彼女が仕掛けた無邪気な無意識の巧詐だったのだ。

今年中には次の評論集も出るらしい。
今から楽しみだ。

2009年2月10日、青磁社、2667円。

posted by 松村正直 at 06:22| Comment(1) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 子規の短歌革新は和歌の俳句化
本当に子規はこのようなことをいったのか。とてもこのようなことをいったとは思えない。なにか、大辻氏は俳人に阿っていったのであろうか。ある歌人で俳句の好きな歌人がいるのだがその歌はつくづく感心しない。歌と俳句の表現と世界が違うからだ。
Posted by 小川良秀 at 2015年08月05日 14:37
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