「短歌に欠けるものを埋める革新論的方向性ではなく、欠陥と見えるもののなかに積極的な意義を見出す道を選んだ」佐太郎の歌論や作品が、長い間あまり理解されずに、しばしば批判されていた点を明らかにしている。
先日読んだ『斎藤茂吉言行』の昭和25年のところにも
卓に「日本歌人」十月号がおいてあった。国見純生の私にあてた公開状が載っている。それを先生は読む。途中から声をたてて読まれた。「然し不満は沢山あります。例えばその見つめ方にどういう具体的な基準があるのか或いはあなたは何を理念としてこの現実を生きているのかよく分かりません」という一節があった。先生はいわれた。「詩でこういうことを言ってはいけないんだ」。
といったやり取りがある。これは島田が取り上げている佐太郎批判とも重なるものだろう。
そうした中にあって、島田は上月昭雄の「佐藤佐太郎論」(「短歌」昭和37年8月号)を「出色のもの」として引き、
注目すべきは、上月がここに前衛短歌運動との接点を認める点にある。この運動が求めた「人工美」は佐太郎のそれとは別物だが、にもかかわらず佐太郎が先行して「現代の美のひとつの典型」を打ち出したからこそ、「新しい美学への大胆な営為」が推進されたと見るのである。
と述べる。佐太郎の歌を近代短歌の延長として捉えるのではなく、そこに前衛短歌にも通じる現代性を見出している点が、今から見ても示唆に富む。