2015年04月24日

『思索の源泉としての鉄道』のつづき

印象的だった部分をいくつか。

太平洋戦争開戦直前に当たる一九四一年春、柿生、鶴川界隈に「柿生離宮」を造営する計画が持ち上がったことがある。離宮というのは名目で、実際には皇居の移転が計画されていたのだ。

この話は初めて知った。私は生まれ育ったのが小田急線の玉川学園前なので、柿生や鶴川といった地名は懐かしい。

いつの日にか、対馬、宗谷、間宮の三海峡がトンネルでつながり、日本海を取り巻く壮大な循環線が開通する日が来ることを、私は夢見ている。必ずやそれは、東アジアの平和と安定に寄与すると考えられるからだ。

「日本―ロシア―中国―北朝鮮―韓国―日本」を循環する国際列車ということになろう。現時点では夢物語にしか思われないが、そうした可能性を考えるのは大事なことにちがいない。交通の変化は人々に意識の変化をもたらすからだ。

この夏、サハリンへ行く予定なのだが、日本―サハリンの交通事情は残念ながら年々悪くなっている。宗谷海峡を渡る稚内―コルサコフの船便も今年で廃止されてしまうらしい。札幌―ユジノサハリンスクの航空便は残っているものの、函館便は廃止されてしまったし、成田便も存続が際どい状況になっている。

宗谷海峡をもしトンネルで渡ることができたら、サハリンは今よりもはるかに身近な存在になることだろう。

posted by 松村正直 at 06:16| Comment(2) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちは。
関東にものすごく疎い私は、もしや?、と「鶴見線、その他」のページを捲りましたがやっぱりちがいました。
表紙はすでにボロボロで、外してしまいました・・・
暗唱、いくつか出来ます(意味もない自慢)。
昔は部分的鉄子でした。乗り鉄。
Posted by 豚肉を揚げる音 at 2015年04月24日 17:38
あの連作は[sai]という同人誌の特集「工場(つくる)」に載ったものですね。川崎臨海部コンビナートを見に行くという企画にゲストとして参加したのでした。

キリンビール横浜工場を見学したり、JR鶴見線に乗って終点の海芝浦駅まで行ったりと、なかなか楽しい内容でした。

Posted by 松村正直 at 2015年04月25日 14:12
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