作者30代の作品297首が収められている。
子の指紋花びらのごと鏡面に乱るるを拭いて夜に対いぬ
言い負けて帰り来し子は弟にひどくやさしいものいいをする
凧の糸引きつつ駆ける少年は項(うなじ)に光るたてがみを持つ
夢の歌はもうつくるなと人言いき夢の中深くうなずきている
たんねんに定規使いて子が描く架空の町の駅の見取図
銀いろの煮干しとなりて身を曲げし魚は何れも小さき口開く
てのひらにきっかりかくれる顔を誰も持つと思いき泣きたるのちに
雨のなかワルツの楽におくれつつ移動図書館の来る水曜日
夜をこめてしずかに火山灰降れりあじさいの葉に山鳩の背に
春深く並木の葉かげ濃くなれり〈関硝子店〉の奥までみどり
1首目、子どもが鏡をべたべた触って遊んだのだろう。「花びらのごと」がいい。
2首目、兄と弟の心情や関わりがよく見えてくる歌。
5首目、「たんねんに定規使いて」に、真剣に取り組む姿が感じられる。
7首目は発想がおもしろい。掌の大きさ=顔の大きさ。
8首目、「楽におくれつつ」が、ゆっくりと進む車の感じをうまく表している。
あとがきの中に
近藤先生から何回か「夫や子供のことは捨てよ」と作歌上のご注意を受けたけれど、私はとうとう捨て切れずに今日まできてしまった。
とある。家族のことなど歌に詠むなということだろうか。その注意に従わなかったのが結果的に良かったのだと思う。近藤芳美という歌人の一面がよく窺える文章である。
2014年8月6日、現代短歌社第1歌集文庫、720円。