2015年04月09日

佐藤佐太郎著 『童馬山房随聞』

佐藤佐太郎が師の斎藤茂吉の言行を書き留めてまとめたもの。
昭和5年から16年までの記録となっている。

佐太郎の家に使いが来て茂吉宅に呼び出されたり、茂吉が佐太郎の勤め先の岩波書店に寄ったり、頻繁に子弟で行き来している。

茂吉の発言からいくつか。

芸術は何によらずひといろではおもしろくない。それだから意図をもって制作するということも否定できないが、これは不即不離で、ぜんぜんなければ平凡だし、出すぎてもいけない。
工夫するということが力量だからな。ポーズがあるの何のといっても、ポーズがないというのがひとつのポーズで、かえって臭気があるよ。
ぼっきしているときのような精神力がなくては芸術はだめですよ。
牧水の歌も晩年は力がなくなって、白湯を飲むようなもんだ。やはり中期がいい。年がとるほど良くなるとは限らないから歌はむずかしいんだな。
〈居れり〉というのはまちがいだよ。僕も使っているが、悪口をいわれても爆撃ができるか、それだけの用意がなければ使わない方がいい。
世の中の人というのは、論争を好まない人が多いけれども、ショウペンハウエルでもヘエゲルをやっつけた文章は炎を吐くようでいい。全集にあれがなければ精彩のないものだ。

「ぼっきしているときのような」「爆撃ができるか」「炎を吐くようでいい」といったあたり、いかにも茂吉という感じがする。とにかく読んでいて飽きない本だ。

1976年2月16日、岩波書店、1200円。

posted by 松村正直 at 07:12| Comment(1) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
茂吉は隣室で男女が何回したとかいっているがわたしは異常な色好みとはとらない。本然の人間の本能と見る。歌の創作は勃起力精神というよりも自然に生まれいずる魂なのではないか。それにしても憚れることを発露する茂吉は天才にありがちな天衣無縫がある。小賢しい他人がどう思っているかのかということなどに拘らないのだ。
Posted by 小川良秀 at 2015年04月09日 13:41
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