2015年03月20日

山本寛太歌集 『北緯49°』から(その1)

山本寛太(1909年生まれ)は「青垣」の歌人で、昭和2年から15年まで教員として樺太に住んだ。タイトルは、著者が樺太で8年間暮らした敷香(しすか、しくか)の緯度を表している。当時、北緯50度が日本とソ連の国境線であった。

ちなみに稚内は北緯45度、京都は四条通りに北緯35度の碑が立っている。

冬枯れのあら野の中へひらけゆく新市街建築の音ぞきこゆる
にごり水かぐろに逆巻き多来加のツンドラ湖の近くなりにし
雪まじるあら風うけて湖にはれる薄氷(うすらひ)のきしみ岸につたはる
言通はぬ土人ふたりと夕くらむ砂浜の上を歩みゆくなる
橇の馬うまやに曳くらしきしみきしみひづめの音す宿のまはりに

「冬枯れ」11首から。
1首目、樺太北部の中心地であった敷香の発展ぶりがよくわかる歌。戦前は約3万人がここに住んでいた。
2首目、多来加(たらいか)湖は敷香北東の海沿いにある湖で、当時、琵琶湖・八郎潟に次いで日本で3番目に大きな湖であった。
3首目、多来加湖に張った氷のきしむ音が岸まで響いている。
4首目、「土人」とあるのは、ウィルタやニヴフなどの先住民族である。彼らに案内をしてもらったのだろう。敷香の近くには「オタスの杜」と呼ばれる先住民指定居住地があった。
5首目、雪道の移動には馬橇が使われる。その馬が厩へと曳かれていく音。

1957年10月10日、青垣発行所、200円。

posted by 松村正直 at 10:06| Comment(2) | 樺太・千島・アイヌ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
初めまして。
私は記事に取り上げて頂いた山本寛太の孫です。祖父は平成15年に95歳で亡くなりましたが、このような形で取り上げて頂き、祖父も天国で喜んでいると思います。
残念ながら私は祖父と違い短歌に造詣が深くはありませんが、生前何度か聞きました樺太の状況を貴サイトを拝見した事で初めて感じ取る事が出来ました。ありがとうございます。
今後も拝見させて頂きます。
Posted by MM at 2015年08月12日 00:06
初めまして。コメントありがとうございます。ご親族の方にお読みいただけるとは全く思っていませんでしたので、たいへん嬉しいです。
先日、サハリンへ旅行して、山本寛太さんが住んでいた敷香(ポロナイスク)にも足を運びました。戦前の王子製紙の工場の建物などが残っています。
私は樺太とは何のゆかりもないのですが、樺太を詠んだ短歌を通じて、戦前は40万人もの日本人がそこに住んでいたことを知りました。それで興味を持ち、少しずつ調べております。
今後ともよろしくお願いします。

Posted by 松村正直 at 2015年08月12日 06:58
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