私は昭和十七年三月、父の実家である函館で生まれた。その頃父は応召されていて、満洲を転戦していたと言う。食糧事情の悪化は母乳を止め、生まれたばかりの私の空腹を満たす事が出来ず、母は止むなく実家の樺太行きを決断した。まだ雪の残る真岡郡野田町の北、久良志という海辺の地に落ち着いた。漁家の食卓は貧しいながらも豊かだったと、生前母も祖母も語っていた。
エッセイの最後は「私の原点は樺太にあり、第一の故郷との想いは強い」と締め括られている。
樺太はかすみて見えず望郷の丘に無韻の〈氷雪の門〉
中村昌子
「氷雪の門」は樺太で亡くなった人のための慰霊碑で、昭和38年に稚内公園に建てられた。天気の良い日にはそこからサハリンの島影が望めるそうだ。