たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり
河野裕子『桜森』
について、解説で穂村弘は
「近江」とは琵琶湖を指す。
と記している。ここは解釈の割れるところで、河野自身は
この歌で私は、「近江」を、ひらがなで「あふみ」とは書きたくなかった。必ず「近江」でなければならなかった。「近江」を琵琶湖と読まれたくなかったからである。(『どこでもないところで』)
と述べている。「あふみ」と書くと「淡海=琵琶湖」をイメージさせてしまう。それを避けて、「真水」=琵琶湖、「昏き器」=近江(旧・滋賀県)という意図で詠んだということだ。近江という土地や風土に対する心寄せの歌である。
もちろん作者の自注に随う必要はない。『現代秀歌』の中で永田和宏は
文字通り読めば、近江という器が琵琶湖の水を抱えていると読むべきなのだろうが、イメージとして「昏き器」を琵琶湖と読んでしまうのもわからなくはない。作者自身は、先の読みにこだわっていたが、いまや器=琵琶湖の読みも許しておいていいような気がする。
と書く。たぶん、それで良いのだろう。
↑、端島、その後の歌を拝見するのもとても楽しみになりました。
作者の代表的な歌で古典的な表現をなし今様の思索的表現というよりも正統的余韻といえる。その表白がだれの目にも魅力であり普遍性があり名歌の一首となっている。この場合、秀歌でおさまらず名歌なのである。その力量は浅からず。昏き器、とはよく琵琶湖をいっていて長い年月によってできたことを教示している。おおみ、とは淡海とも表記するが近江の方が詩的で現代性を感じさせる。
「読む方の気持ちも広がります」というのは、本当にその通りですね。短歌を読む醍醐味は、まさにそこにあるのかもしれません。