2015年02月18日

『新田寛全歌集 蝦夷山家』から(その1)

新田寛は戦前の樺太歌壇の中心人物の一人。
教員として樺太で暮らしつつ、「樺太新聞」や雑誌「樺太」の歌壇の選者を務め、昭和16年には樺太歌人会の副会長になっている。

雲低う垂れてなごめる大わだや七浜かけて舟うかみたり(鰊漁)
舟の魚移しはこぶと水ふかく馬車ひき入るる後から後から
大網の目ごとに着ける鰊の卵(こ)大勢にして打ち落しをり
魚の腹指(および)に割きて数の子を取りゐる人ら血にまみれたる
うづたかき鰊の中に身をうづめひたむきに卵をば取りてゐるなり

昭和3年の樺太の鰊漁を詠んだ歌。

1首目は鰊を獲るために多くの舟が海に出ているところ。
2首目、魚を運ぶために馬車を海の中まで入れているのが珍しい。
3首目、「大網の目ごとに着ける」というのだから、かなりの大漁である。
4・5首目は数の子を取る作業の様子。「指に割きて」「身をうづめ」といった臨場感あふれる描写が印象的だ。

菊地滴翠編『樺太歳時記』によれば

樺太で最高の水揚げは昭和六年で、開島以来という七二万九〇〇〇石。水揚げが減る一方の北海道に比較し、樺太の鰊漁師は我が世の春を謳歌した。

という状態だったらしい。

posted by 松村正直 at 20:54| Comment(0) | 樺太・千島・アイヌ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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