教員として樺太で暮らしつつ、「樺太新聞」や雑誌「樺太」の歌壇の選者を務め、昭和16年には樺太歌人会の副会長になっている。
雲低う垂れてなごめる大わだや七浜かけて舟うかみたり(鰊漁)
舟の魚移しはこぶと水ふかく馬車ひき入るる後から後から
大網の目ごとに着ける鰊の卵(こ)大勢にして打ち落しをり
魚の腹指(および)に割きて数の子を取りゐる人ら血にまみれたる
うづたかき鰊の中に身をうづめひたむきに卵をば取りてゐるなり
昭和3年の樺太の鰊漁を詠んだ歌。
1首目は鰊を獲るために多くの舟が海に出ているところ。
2首目、魚を運ぶために馬車を海の中まで入れているのが珍しい。
3首目、「大網の目ごとに着ける」というのだから、かなりの大漁である。
4・5首目は数の子を取る作業の様子。「指に割きて」「身をうづめ」といった臨場感あふれる描写が印象的だ。
菊地滴翠編『樺太歳時記』によれば
樺太で最高の水揚げは昭和六年で、開島以来という七二万九〇〇〇石。水揚げが減る一方の北海道に比較し、樺太の鰊漁師は我が世の春を謳歌した。
という状態だったらしい。