まずは第4章「「旧派」の行方」から。
各地方の歌会に出席して見るに大方は六七十歳以上の老人のみなり老人の歌よみ敢て排斥するにあらず大に歓迎する所なれど歌其物は社会と相対して離るべからざるものなれば老人百名寄つどふ席の半面には青年が三四百名位の割合に列すべきは最も意義ある歌の会なるべく
歌会参加者の高齢化を述べるこの文章は、旧派和歌の歌人が多く参加した大日本歌道奨励会の機関紙「わか竹」1922年7月号に載ったもの。現在の結社の高齢化の問題とも重なり合う話であろう。
続いて第10章「誰が「ヒロシマ」を詠みうるか?」から。
実際この歌集が私たちに与える感動は、身を以て原爆を体験することもなく、ただ遠く外から眺めて筆を走らせた作家たちの作品とは根本的に違って、つぶさに惨苦をなめ、更に九箇年の長きに亙って死生の間を生きながらえて来た広島市民の声といってよかろう。
これは、1954年刊行の合同歌集『広島』の序に記された長田新のコメントである。ここには東日本大震災の震災詠をめぐって問題になった「当事者かどうか」といった観点が既に表れている。
著者の松澤はこれに対して、
ここで『広島』の作品は、身をもって原爆を体験した人々の「声」として長田に認知され、収録作品の真正性にお墨付きが与えられている。しかし裏返せば、それは「遠く外から眺めて筆を走らせた作家」たち、つまり原爆を体験せず、それを詠うものに口をつぐませる言辞でもあった。
と記す。これは非常に鋭い指摘だと思う。
「口をつぐませる言辞」というものは、東日本大震災の時にもたびたび繰り返されたのである。