板の間に横たはりつつ「ぼろきれかなにかの如く」なりたる猫は
街上に轢(ひ)かれし猫はぼろ切(きれ)か何かのごとく平(ひら)たくなりぬ
斎藤茂吉『白桃』
わが知らぬ南蛮啄木(けら)といふ鳥を茂吉うたへり四十九歳
くれなゐの嘴(はし)もつゆゑにこの鳥を南蛮(なんばん)啄木(けら)と山びと
云へり 斎藤茂吉『たかはら』
紙をきる鋏に鼻毛きりたればまつしろき毛がまじりてゐたり
München(ミュンヘン)にわが居りしとき夜(よる)ふけて陰(ほと)の白毛
(しらげ)を切りて棄てにき 斎藤茂吉『ともしび』
こんなふうに読み比べてみるのも、なかなか楽しい。
彼の歌にはこのような歌をよく見るのだが。わたしが師の絵をまねて絵を描いたとき、烈火のごとく怒られた。すなわち、これが職人根性らしい。芸術家として創作のなんたるかを知らないのだ。歌でも同様ではなかろうか。彼の歌は魅力的であり読むものを満足させてくれるのだがはっきりといってひとつの歌を参考にして創ることをきっぱりとやめるべきである。彼はそんなことをせずして秀歌ができる実力をもっているからである。苦い薬を飲ますようだが和尚のこころを分かっていただきたい。