いのちある物のあはれは限りなし光のごとき色をもつ魚
第7歌集『群丘』のこの歌について、尾崎は
「魚」の題で、「(下関水族館、江ノ島水族館)」の詞書が添えてあるが、この一首はおそらく江ノ島水族館であろう。
と記している。けれども、なぜ「おそらく江ノ島水族館であろう」と推定しているのか、その根拠は記されていない。
歌集の中では「魚(下関水族館、江ノ島水族館)」と題して5首が掲載されている。別々の水族館で詠んだ歌を「魚」という観点でまとめているところが、佐太郎ならではのユニークなところだ。
この歌については、実は佐太郎自身が随筆集『枇杷の花』の中で触れている。
昭和三十一年に下関の水族館を見、それから江ノ島の水族館を見た。両方の材料をもとにして「魚」の歌をいくつか作った。そのなかに「いのちある物のあはれは限りなし光のごとき色をもつ魚」という一首がある。これは下関で見た鯛が素因になって出来た歌である。
どちらの水族館であっても歌の鑑賞に影響はないのだが、一応、実証的な面から「下関」であることを指摘しておきたい。
いのちある物のあはれは限りなし光のごとき色をもつ魚
仏教的なことばが前句にあるが普遍的視点で歌が大きい。物のあはれ、とは仏教の教えのひとつ、無常であろうか。限りなし、とは無限ですべて生あるものをいっている。後句で具体をいって、これは鯛らしい、詩をつくっている。光のごとき色、とはやすからぬ表現で色が耀き燦然としているさま。前句で重くあわれをいって後句で読者を瞠目させている秀歌といえよう。 かってのアララギにこのような詩をうたうすぐれた歌人がいたということだ。塔、は変貌して思索的になったが現今のアララギはどうであろうか。わたしは塔、のごとく良くかわってほしいと願う。