歌集『石泉』には、その旅で見かけたアイヌの遺跡やアイヌの人々のことを詠んだ歌が数多く収められている。あまり言及されることのない歌なので、すべて引いておこう。漢字では「愛奴」という字を当てていたようだ。
「層雲峡」
愛奴語(あいぬご)のチャシは土壁(どへき)の意味にして闘(たたかひ)のあと残りけるかも
愛奴等のはげしき戦闘(たたかひ)のあとどころ環状石は山のうへに見ゆ
とりかぶとの花咲くそばを通りつつアイヌ毒矢(どくや)のことを言ひつつ
「支笏湖途上」
藪のそばに愛奴(あいぬ)めのこの立ちゐるを寂しきものの如くにおもふ
木群(こむら)ある沢となりつつむかうには愛奴(あいぬ)の童子(わらべ)走りつつ居り
こもりたるしづかさありて此沢に愛奴(あいぬ)部落(ぶらく)のあるを知りたり
「白老」
白老の愛奴酋長の家に来て媼(おうな)若きをみな童女(わらはめ)に逢ふ
白き髯ながき愛奴の翁ゐて旅こしものを怪(あや)しまなくに
降る雨を見ながら黒く煤(すす)垂(た)りし愛奴のいへの中に入り居り
「登別」
刀抜きて舞へるアイヌがうたふこゑわが目の前に太々(ふとぶと)と鋭(と)き
時代的な制約や限界はもちろんあるけれども、茂吉がアイヌの文化や歴史、人々に関心を持って接している様子が感じられるのではないだろうか。単なる観光や物珍しさだけではない心寄せがあるように思う。