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やさしい鮫日記
松村正直の短歌と生活
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2014年07月18日
「短歌往来」2014年8月号
藤島秀憲の作品月評がおもしろい。
総合誌のこうした欄は、たいてい作品を褒めることに終始することが多いのだが、藤島は作品の問題点もきちんと指摘している。
7月号では小高賢を詠んだ挽歌について、「今詠み、発表する必要が、どれだけあるのか?」という問題を提起していたが、8月号でも、例えば永田和宏の作品に出てくる「あなた」について、はっきりと疑問を呈している。
こんなふうに正々堂々と誌面で自分の意見を述べるのは、実は意外にできないものなのだ。意見に対する賛否は別にして、その姿勢に深く共感する。
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posted by 松村正直 at 21:53|
Comment(3)
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短歌誌・同人誌
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この記事へのコメント
人間は感情の動物ですからなかなか批評することは難しいですね。悪く言えばよく思われない。特に上の段階のもの、先輩のもの。ゆえに波風をたてないように良くいう。師のことは特に。箇条書きでわたしの考えをいってみたい。
1)わが師は日本のトップで歌はほぼ完璧である。それゆえ言う必要ない。その弟子たちも優れた歌人たちで師の一部ととらえ悪くはいわない。
2)肩書きを見て欲しいひと。肩書きなどでなく歌そのものを評価して欲しいひと。わたしは後者をとりたい。
3)名をなし偉くなるとひとは歌は良いものと見て批評しない。いわゆる何も悪く問題点をいってくれないのである。ここに大きな事由がある。芸、すなわち歌に限界がないのだ。大いに名のある者も切磋琢磨すべきである。
3)わたしは己が傷ついてもそのひとに為になるならば言うことにしている。
4)土屋文明が批評に師も弟子もないといっている。批評の前には肩書きは必要ないのである。
5)批評にはひとそれぞれに考えがあるでしょう。誤りもあれば正鵠を衝いているもの。また、凡、非凡と個人の力がある。
6)結社によって主義・主張もあろうかと思うが塔がいや壮んになることはひとつの考えにこだわらないことだ。
7)若いものに甘い風潮があるがひとが未熟、歌が未熟ならば真の黎明の歌はできない。
8)河野裕子先生が存命ならば歌会などで
人間もつくっていただけると思うと残念である。歌の前に人間をつくれ、ということを編集長として重きに考えていただきたい。
Posted by 小川良秀 at 2014年07月19日 11:31
「正々堂々と誌面で自分の意見を述べるのは、実は意外にできない」―― そういえば、たしかに商業系の短歌雑誌の「作品月評」欄は褒め言葉が多いですね。せっかく取り上げるのだから好ましい歌を取り上げたい、という意識が働くのでしょうか。あるいは、筆者が批評家ではなく歌人だから?
Posted by なかにしりょうた at 2014年07月22日 17:49
なかにし様
基本的には良いと思った歌を取り上げる欄なのでしょうね。良いと思わない歌は取り上げなければいいという考えには確かに一理あります。
ただ、それだけではなくて、やはり歌壇内部の互酬性のようなものが働いている面もあるでしょう。歌人同士では批判しにくい(批判しても得にならない)ということですね。
だから、総合誌(商業系の短歌雑誌)を読んでいても、「この人は本当にこの歌が良いと思って書いているのだろうか?」という疑問が常に生じてしまいます。
Posted by 松村正直 at 2014年07月24日 00:04
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1)わが師は日本のトップで歌はほぼ完璧である。それゆえ言う必要ない。その弟子たちも優れた歌人たちで師の一部ととらえ悪くはいわない。
2)肩書きを見て欲しいひと。肩書きなどでなく歌そのものを評価して欲しいひと。わたしは後者をとりたい。
3)名をなし偉くなるとひとは歌は良いものと見て批評しない。いわゆる何も悪く問題点をいってくれないのである。ここに大きな事由がある。芸、すなわち歌に限界がないのだ。大いに名のある者も切磋琢磨すべきである。
3)わたしは己が傷ついてもそのひとに為になるならば言うことにしている。
4)土屋文明が批評に師も弟子もないといっている。批評の前には肩書きは必要ないのである。
5)批評にはひとそれぞれに考えがあるでしょう。誤りもあれば正鵠を衝いているもの。また、凡、非凡と個人の力がある。
6)結社によって主義・主張もあろうかと思うが塔がいや壮んになることはひとつの考えにこだわらないことだ。
7)若いものに甘い風潮があるがひとが未熟、歌が未熟ならば真の黎明の歌はできない。
8)河野裕子先生が存命ならば歌会などで
人間もつくっていただけると思うと残念である。歌の前に人間をつくれ、ということを編集長として重きに考えていただきたい。
基本的には良いと思った歌を取り上げる欄なのでしょうね。良いと思わない歌は取り上げなければいいという考えには確かに一理あります。
ただ、それだけではなくて、やはり歌壇内部の互酬性のようなものが働いている面もあるでしょう。歌人同士では批判しにくい(批判しても得にならない)ということですね。
だから、総合誌(商業系の短歌雑誌)を読んでいても、「この人は本当にこの歌が良いと思って書いているのだろうか?」という疑問が常に生じてしまいます。