2014年05月20日

作者と作中主体(その2)

本当に作者と作中主体は別なのだろうか?

同じく「本郷短歌」第三号に安田百合絵「『ガラスの檻』を読む―孤独・情念・原罪―」という評論が載っている。稲葉京子の歌について論じた文章だが、その中に次のような箇所がある。

しばしば指摘されることだが、雨宮雅子はクリスチャン歌人である。そのことを抜きにして彼女の歌を語ることはできない。

稲葉と雨宮の比較が語られている部分である。この〈雨宮雅子がクリスチャンであることを抜きにして、雨宮雅子の歌は語れない〉という考えは、作者と作中主体を「別」ではなく「深い関係がある」と捉えているものと言っていいだろう。

もっと簡単な話をすれば、私は昨年『高安国世の手紙』という評伝を出版した。これは高安が残した手紙を元に、高安の交友関係や時代状況を分析し、高安の歌と関連付けながら、その人生を追ったものである。

もし、作者(高安国世)と作中主体(高安作品の主体)が「別」であるならば、こんな作業には何の意味もない。作者についての情報や理解は、歌の読みには全く関わりがないということになるだろう。でも、私はそうは思わない。

「作者=作中主体」という考えが多くの問題を含んでいるのと同じように、「作者と作中主体は別」という考えにも問題があるのではないだろうか。


posted by 松村正直 at 21:51| Comment(0) | 短歌入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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