2014年05月15日

作者と作中主体(その1)

最近、作者と作中主体の関係に触れた文章をいくつか読んだ。
「かりん」5月号の時評では松村由利子が、俵万智の震災詠に対する阿木津英の批判に反論した上で、次のように書く。

一方、いかなる場合も作者と作中主体は別であり、作者の実生活は論考の対象ではない。震災詠においても、原発に賛成か反対か、震災後に居を移したか否か、などで歌の評価が違ってはいけないはずだ。(…)歌論は歌によってのみ展開されるべきである。

また、「本郷短歌」第三号では宝珠山陽太が、評論「〈母性〉の圧力とその表現」の最初の部分で次のように述べている。

その前に、ここで一つ確認しておきたいことがある。それは作者と作中主体の距離についてだ。前述のとおり『トリサンナイタ』は大口の私生活を下敷きにしている。しかし、歌集で詠まれている「私」は一つのフィクションであると言える。(…)よって作中の主体は、歌集を貫いて同一の人物であるように思われるが、その人物と、大口自身のパーソナリティのようなものを引きつけて考えることは避けるべきである。

二人の言っていることはよくわかる。「作者と作中主体は別」という考えは、現代短歌においてはむしろ当然の前提となっていると言ってもいいだろう。歌会においても、「あくまで歌に対する批評であって、作者について言っているのではない」といった言葉をよく耳にする。

私自身、基本的にはそうした考えに同意するのだが、いつもどこか割り切れないような、もやもやした思いが残るのだ。

posted by 松村正直 at 00:41| Comment(1) | 短歌入門 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
作品に己を反映するものがあったり、虚構であるもの、とそれぞれに見きわめねばならない。万智を擁護するのではないが彼女のとった震災がゆえの東北から沖縄への逃避行は人として当然で非難することは非難にあたらない。非難する者はどうかと思う。
Posted by 良秀和尚 at 2014年05月15日 07:38
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