「かりん」5月号の時評では松村由利子が、俵万智の震災詠に対する阿木津英の批判に反論した上で、次のように書く。
一方、いかなる場合も作者と作中主体は別であり、作者の実生活は論考の対象ではない。震災詠においても、原発に賛成か反対か、震災後に居を移したか否か、などで歌の評価が違ってはいけないはずだ。(…)歌論は歌によってのみ展開されるべきである。
また、「本郷短歌」第三号では宝珠山陽太が、評論「〈母性〉の圧力とその表現」の最初の部分で次のように述べている。
その前に、ここで一つ確認しておきたいことがある。それは作者と作中主体の距離についてだ。前述のとおり『トリサンナイタ』は大口の私生活を下敷きにしている。しかし、歌集で詠まれている「私」は一つのフィクションであると言える。(…)よって作中の主体は、歌集を貫いて同一の人物であるように思われるが、その人物と、大口自身のパーソナリティのようなものを引きつけて考えることは避けるべきである。
二人の言っていることはよくわかる。「作者と作中主体は別」という考えは、現代短歌においてはむしろ当然の前提となっていると言ってもいいだろう。歌会においても、「あくまで歌に対する批評であって、作者について言っているのではない」といった言葉をよく耳にする。
私自身、基本的にはそうした考えに同意するのだが、いつもどこか割り切れないような、もやもやした思いが残るのだ。