「良し悪しの先の「批評」を」と題して、五島諭歌集『緑の祠』について書いている文章である。五島さんの歌を二首引いて、細かくその分析をしており、「なるほど」と思ったり、「そうかな?」と思ったりしながら読んだ。内容については、実物をお読みいただければと思う。
この文章は、おそらく私が角川「短歌」2月号に書いた歌壇時評「内向きな批評を脱して」を受けて、書かれたものだと思われる。「おそらく」と言うのは、それがどこにも記されていないからだ。
某誌の歌壇時評で、五島諭さんの歌集『緑の祠』から「良い歌」と「悪い歌」がそれぞれ挙げられていました。その評者の見識にここでわざわざ反論する意図はまったくないのですが、(…)
文章はこのように始まっていて、どこにも「角川短歌」とも「松村正直」とも書かれてない。私が書いた文章の一部が、名前も明示されずに引かれているのを見るのは、何とも落ち着かない。そうした書き方をすることに対して、非常に残念に思う。
ツイッターでは相手を明示しないで反応する「エアリプ」がしばしば行われるが、雑誌の文章においても、そうしたことがまかり通るようになってしまったのか。これでは、オープンな議論など期待できるはずもない。
「現代詩手帖」の読者のうち一体どれくらいの人が、吉田さんの文章を読んで、私の文章にアクセスできるだろうか。筆者名も掲載誌も掲載月もわからない文章を、どうやって探し出せばいいのだろう。出典を示さずに引用するのはアンフェアだと思わざるを得ない。
この件については「現代詩手帖」に連絡して、読者に元の文章の出典がわかるようにしてほしいとお願いした。担当者の方がどう判断されるかわからないが、今後のためにも曖昧にしておきたくはないと思う。
はじめまして。ご意見ありがとうございます。
今回の件も「内向きの批評」と言えるのではないかと思っています。
そうならないためにも、対象を明らかにして、読者にわかる形で論じていただきたかったという思いです。
実物を読まずに感想を言うのは控えますが、随分いろいろな雑誌でいろいろな人が時評やら連載やらやっているのだなあと思います。
「現代詩手帖」の短歌時評は、毎年おもしろいですよ。