2014年03月09日

マルテの手記

癒えたならマルテの手記も読みたしと冷たきベツド撫でつつ思ふ
                  河野裕子『森のやうに獣のやうに』
『マルテの手記』借りてゆくよと去りぎわに子は呟けり青年として
                  山下泉『海の額と夜の頬』
忘却はやさしきほどに酷なれば書架に『マルテの手記』が足らざり
                  吉田隼人「忘却のための試論」

リルケの『マルテの手記』は、今でも人気の高い本だろう。
短歌の中にもしばしば、その名前を見かける。

私が最初に読んだのは高校生のとき。
今でも大切な一冊だ。

『マルテの手記』には多くの翻訳が出ている。
文庫で出ているものだけでも、以下のような訳がある。

 生野幸吉訳(河出文庫、1955年)
なるほど生きようと思えばこそ、ひとはこの街に集ってくるのだろう。だが、ここではあらゆるものが死滅するほかはない、むしろそんなふうにぼくには思えるのだ。

 芳賀檀訳(角川文庫、1959年)
そう。こうして人々は生きんがためにこの都市へ集まってくるらしい。が僕にはむしろ、ここではみんな人が死んでゆくとしか思えない。

 高安国世訳(講談社文庫、1971年)
そう、要するに人々は生きるためにこのパリにやってくる。だがぼくには、むしろここでは何もかもが死んでゆくように思えてならない。

 望月市恵訳(岩波文庫、1973年改版)
こうして人々は生きるためにこの都会へ集まって来るのだが、僕にはそれがここで死ぬためのように考えられる。

 大山定一訳(新潮文庫、2001年改版)
人々は生きるためにこの都会へ集まって来るらしい。しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ。

冒頭部分を引いてみたが、訳者によって随分と雰囲気が違うことがわかる。
私は望月訳を繰り返し読んだので、今でもその訳に愛着がある。

きっと誰もが、自分になじみの深い訳を持っているのだろう。

posted by 松村正直 at 02:00| Comment(2) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
この箇所の訳は、望月訳だけ解釈がちょっとちがいますね。日本語としては高安訳が断然いい気がします。さすが。
Posted by なかにし りょうた at 2014年03月10日 23:21
望月訳は「生きるため」との対比で「死ぬため」としたのだと思いますが、原文のニュアンスとは違っていますね。別に死ぬために集まるわけではなくて、結果的に死んでいくということでしょう。

ただ、この冒頭に出てくる「死ぬため」という言葉の強さは、今でも僕の印象に残っていて、愛着があるわけです。
Posted by 松村正直 at 2014年03月11日 00:56
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