癒えたならマルテの手記も読みたしと冷たきベツド撫でつつ思ふ
河野裕子『森のやうに獣のやうに』
『マルテの手記』借りてゆくよと去りぎわに子は呟けり青年として
山下泉『海の額と夜の頬』
忘却はやさしきほどに酷なれば書架に『マルテの手記』が足らざり
吉田隼人「忘却のための試論」
リルケの『マルテの手記』は、今でも人気の高い本だろう。
短歌の中にもしばしば、その名前を見かける。
私が最初に読んだのは高校生のとき。
今でも大切な一冊だ。
『マルテの手記』には多くの翻訳が出ている。
文庫で出ているものだけでも、以下のような訳がある。
生野幸吉訳(河出文庫、1955年)
なるほど生きようと思えばこそ、ひとはこの街に集ってくるのだろう。だが、ここではあらゆるものが死滅するほかはない、むしろそんなふうにぼくには思えるのだ。
芳賀檀訳(角川文庫、1959年)
そう。こうして人々は生きんがためにこの都市へ集まってくるらしい。が僕にはむしろ、ここではみんな人が死んでゆくとしか思えない。
高安国世訳(講談社文庫、1971年)
そう、要するに人々は生きるためにこのパリにやってくる。だがぼくには、むしろここでは何もかもが死んでゆくように思えてならない。
望月市恵訳(岩波文庫、1973年改版)
こうして人々は生きるためにこの都会へ集まって来るのだが、僕にはそれがここで死ぬためのように考えられる。
大山定一訳(新潮文庫、2001年改版)
人々は生きるためにこの都会へ集まって来るらしい。しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ。
冒頭部分を引いてみたが、訳者によって随分と雰囲気が違うことがわかる。
私は望月訳を繰り返し読んだので、今でもその訳に愛着がある。
きっと誰もが、自分になじみの深い訳を持っているのだろう。
ただ、この冒頭に出てくる「死ぬため」という言葉の強さは、今でも僕の印象に残っていて、愛着があるわけです。