2014年02月26日

ムッソリーニと色紙(その2)

『寒雲』の歌には「ムソリニ首相に与へし」という詞書が付いている。「与へし」は何やら偉そうな気もするが、実際のところはイタリアへ行く石本巳四雄に託したわけである。

では、この色紙はその後どうなったかと言うと、これには後日譚がある。
前回引いた「ムツソリニ首相」という文章には、昭和19年8月に書かれたと推定される追記があるのだ。
○後記。あれほど高安夫人が私をせきたてて作らせたこの一首と、いそがしい時に慌ただしく書いた金の色紙とは、つひに石本博士の手からムツソリニ氏に手渡されなかつたのみならず、外交官某氏の手に渡したまま、石本博士は帰朝してしまつた。さうしてゐるうち、石本博士も死んでしまつた。自分はこれまでも色紙短冊のたぐひに歌かくことを好まぬが、かういふことがあると、いよいよ以ていやになつてしまふ。

というわけで、色紙は結局ムッソリーニの手には渡らず、茂吉はそれに対して少々憤慨しているのであった。もっとも、この追記が書かれた前年に、ムッソリーニはクーデタにより失脚して北イタリアに逃れており、昭和20年4月には処刑されている。

色紙のことであるが、石本巳四雄はイタリアでムッソリーニに会う機会がなかったのだろうか。それで茂吉から託された色紙を渡すことができなかったのか。

実はそうではない。美佐保の本には、昭和13年5月3日から9日にかけてヒトラーがローマを訪問した話があり、その後、
十日にパパはムッソリーニと会見、ようやく訪伊の最後の目的を果たす。

と書かれているのである。

ここからはただの推測であるが、石本巳四雄にとって、義母の短歌の師から託された色紙は、もともと気の重い預かり物だったのではないだろうか。「外交官某氏」に渡して済ませた気持ちが、とてもよくわかる。

posted by 松村正直 at 00:10| Comment(0) | 斎藤茂吉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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