まずは坪内逍遥が、西洋のオペラに対して日本の歌舞伎をベースに新たな歌劇文化を作っていくことを提唱した話。
逍遥の場合に重要なのは、このような方向を見据えつつ、最終的に歌舞伎の「改良」という選択肢を選んだということです。逍遥は、歌舞伎はそのままでは、西洋のオペラに対抗するものとして国際的には通用しないと考えていました。(…)そのために「改良」が必要であることを主張したのです。
これなどは、西洋からの詩の流入に対して、正岡子規が和歌の革新を目指した問題意識と共通するものだろう。
従来の和歌を以て日本文学の基礎とし、城壁と為さんとするは、弓矢剣槍を以て戦はんとすると同じ事にて、明治時代に行はるべき事にては無之候。(…)されば僅少の金額にて購ひ得べき外国の文学思想抔は、続々輸入して日本文学の城壁を固めたく存候。生は和歌につきても旧思想を破壊して、新思想を注文するの考にて、随つて用語は雅語、俗語、漢語、洋語必要次第用うるつもりに候。 「六たび歌よみに与えふる書」
おそらく、このように西洋文化の流入に対して伝統文化を改良・革新するという試みが、当時は様々なジャンルにおいて試みられたのだろう。和歌から短歌への流れを考える際にも、時系列的な縦軸だけではなく、こうした同時代の横軸も踏まえて考える必要があるわけだ。