歌人としての出口王仁三郎は、昭和五(一九三〇)年に前田夕暮の結社「詩歌」に入会したのを皮切りに、百以上の結社に次々と入会する。
と笹公人さんが解説に書いているのを読んでも、その桁外れのスケールに驚くほかはない。しかも、中には女性のみの雑誌に女の名前を使って入ったりもしているのである。
王仁三郎の第4歌集『霞の奥』の目次を見ると、まず「昭和六年六月」という章立てがあって、「詩歌 沈默」「つき草 春寒し」「短歌月刊 春の歌」「心の花 天城嶺」「創作 天橋」「都市と藝術 外濠」「水甕 鶴山林」「蒼穹 湯ケ嶋にて」「吾妹 夕月」「香蘭 温泉の村」「アララギ 如月」「潮音 東上」……と、実に50以上の結社誌の名前がならぶ。これはすべて、ひと月に王仁三郎が結社に発表した作品である。しかも、次は「七月」とあって、また同じように続いていくのだ。
今では、というか、当時でも考えられない常識破りの行いであり、作歌量であろう。
そんな王仁三郎は、当時の歌人たちをどのように見ていたのだろうか。
小賢しく主義や主張とあげつらふ歌人の尻の小さきに呆るる
病雁(びやうがん)の一つの歌に数ケ月の喧嘩続くる小さき歌人よ
くやみごと上手に並べ肺病を歌によむ人を歌人といふなり
全国の歌人がわれをにくむとも鎧袖一触(がいしういつしよく)の感だにもなし
2首目は昭和4年から5年にかけて、斎藤茂吉と太田水穂との間で行われた「病雁」論争のことを言っている。王仁三郎という桁外れの人物から見れば、どんな歌人も「尻の小さき」存在でしかなかったであろう。