2014年01月06日

司馬遼太郎著 『街道をゆく26 嵯峨散歩、仙台・石巻』(新装版)


久しぶりに「街道をゆく」を読む。

全体としては歴史紀行なのだが、その中に個人的な思い出や現地でのやり取り、文化や言語をめぐる思索などが挟み込まれて、話は何度も本筋から逸れたり元に戻ったりする。こうした文章の書き方は、短歌で言えば近年の岡井さんの書き方に近い。もっとすっきりも書けるのだが、そうしないところに味わいがある。
文化というのは元来不合理なもの・便利でないもの・均等的でないものをいう。不合理であればこそ、人間のくらしを包んでくれて、ときには生きるはげみになるということを思わねばならない。

夏目漱石や吉田松陰の文章に関する話も興味深い。
 文章語というものは、結局は社会が“共有化”するものである。それまでは、学者、小説家、評論家、新聞記者、国定教科書の筆者などが、めいめい手作りをした。
 そのあげく、私は漱石において第一期の成熟をみたと思っている。
 松陰における言語とは、そういうものだったのである。ことわっておかねばならないが、この時代までの話し言葉としての日本語は、古代ギリシアの哲学者や政治家からみれば、滑稽なほど未開だった。
 口頭から発する言語で、思想を語ることもできなければ、簡単な報告すらむりだった。

2009年2月28日、朝日文庫、660円。

posted by 松村正直 at 00:53| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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