久しぶりに「街道をゆく」を読む。
全体としては歴史紀行なのだが、その中に個人的な思い出や現地でのやり取り、文化や言語をめぐる思索などが挟み込まれて、話は何度も本筋から逸れたり元に戻ったりする。こうした文章の書き方は、短歌で言えば近年の岡井さんの書き方に近い。もっとすっきりも書けるのだが、そうしないところに味わいがある。
文化というのは元来不合理なもの・便利でないもの・均等的でないものをいう。不合理であればこそ、人間のくらしを包んでくれて、ときには生きるはげみになるということを思わねばならない。
夏目漱石や吉田松陰の文章に関する話も興味深い。
文章語というものは、結局は社会が“共有化”するものである。それまでは、学者、小説家、評論家、新聞記者、国定教科書の筆者などが、めいめい手作りをした。
そのあげく、私は漱石において第一期の成熟をみたと思っている。
松陰における言語とは、そういうものだったのである。ことわっておかねばならないが、この時代までの話し言葉としての日本語は、古代ギリシアの哲学者や政治家からみれば、滑稽なほど未開だった。
口頭から発する言語で、思想を語ることもできなければ、簡単な報告すらむりだった。
2009年2月28日、朝日文庫、660円。