少し前の話になるが、そのブログに「永井陽子を探して」という文章が4回にわたって掲載された。
その中で、永井陽子が1973年に創刊された岡野弘彦の「人」に参加していたこと、その事実が永井の年譜には記されていないことが述べられている。
年譜というのは、何が書かれているかがもちろん大切だが、それと同じくらい、あるいはそれ以上に、何が書かれていないかということも、実は大切な要素なのだろう。例えば、『高安国世全歌集』の年譜には、こんな記述がある。
昭和三十八年 十一月、京都大学教授となる。
高安が京大の教授になったことに関するものだが、どの学部の教授かは書かれていない。年譜だけを読んでいると、京大文学部独文科の教授であるかのような印象を受ける。けれども、実際には、高安は教養部の教授であった。
この件については『高安国世の手紙』にも詳しく書いたが、文学部ではなく教養部の教授であるということは、高安にとって嬉しいことではなかった。だからこそ、生前のプロフィールにはもちろん、死後に刊行された全歌集の年譜からも、注意深く省かれているのである。
こうした例は、他にもいくつもある。
河野裕子の年譜はこれまでに何種類も出ているが、それぞれ見比べてみると内容に変化があることがわかる。何が追加され、何が省かれたかということからも、河野の人生の一部を垣間見ることができる。