特集の内容については後日また触れることにして、少し別の話を。
『赤光』には「赤」という色がたくさん出てくることが知られている。
有名な歌を挙げれば
のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳(たらち)ねの母は死にたまふなり
赤茄子の腐れてゐたるところより幾程(いくほど)もなき歩みなりけり
赤き池(いけ)にひとりぽつちの真裸(まはだか)のをんな亡者(もうじや)の泣きゐるところ
など、いくつもある。「紅」「あかき」なども含めれば、かなりの数にのぼるだろう。
今日、用があって「悲報来」10首を読んだのだが、ここにも「赤」は登場する。
氷(こほり)きるをとこの口(くち)のたばこの火赤(あか)かりければ見て走りたり
そして、もう一首。
赤彦(あかひこ)と赤彦が妻吾(あ)に寝よと蚤とり粉(こな)を呉れにけらずや
もちろん、この歌の「赤彦」は人名であって、REDの意味はない。けれども、それではどんな名前でも良かったのかと言えば、おそらくそうではないだろう。やはり「赤」彦だったからこそ、歌に名前を詠み込んだのではあるまいか。
「悲報来」の一連を改めて読んでみて、ふとそんな感想を持った。
この歌が、名歌なのか、秀歌なのか、問題の歌なのか、ひとつわたしなりに鑑賞してみたい。
○この歌は常套のいわゆるアララギの写生歌のひとつとしてとりたい。
○それゆえに、枝葉末節に及ぶ読みは避けるべきと思う。
○このトマトが茎にあったまま腐っていたのか、実が落ちて腐っていたのか、どちらともにとれるのだがわたしは前者をとりたい。
○何故かというと前者の方が生命感がありトマトの赤の無惨が強調される。
○茂吉はこの無惨を自分の歩みに思いをこめたのか。
○いずれにしても深読みはさけるべきである。
○後世の歌人による深読みを茂吉は苦笑耐えがたかるものとしてとるであろう。
○この歌をして茂吉の審美眼が浅からぬものとしてとれる。彼は画をよくした。