二人には、旧制高校的な教養や西洋に対する憧れなど、いくつもの共通点があった。
「未来」は昭和二十六年に創刊された同人誌的な雑誌で、近藤氏のことを先生とは誰も呼ばず、みな近藤さんと呼んでいた。氏が、先生と呼ばれることを嫌ったからである。
これは、「塔」と高安国世の場合も全く同じである。高安も先生と呼ばれることを嫌い、会員はみな高安さんと呼んでいたと聞く。
1960年代頃まで、二人の歌集にはかなりの対応関係が見られる。近藤の第1歌集『早春歌』(1948年)に対して、高安の第1歌集は『Vorfruhling(早春)』(1951年)であり、ともに戦前から敗戦までの歌を収める。第2歌集『埃吹く街』(1948年)と『真実』(1949年)は、ともに戦後の歌だ。
1960年に高安がドイツ留学を題材に『北極飛行』を出せば、近藤も1969年にソ連、ヨーロッパ、アメリカ旅行を中心とした『異邦者』を刊行している。その中には「北極圏飛翔」という一連も含まれている。