2013年08月25日

角川「短歌」の古い号から(その1)

1962年1月号に、小野茂樹「修羅のわかれ―坂田博義君のこと」という文章が載っている。前年の11月に自死した坂田博義への追悼文である。

小野は坂田と一度も会ったことはなかったが、1936年12月生まれの小野と1937年1月生まれの坂田は同世代であり、坂田の作品に常に関心を持ち続けていたらしい。

追悼文は小野が「地中海」の集まりに参加した後、京都に来て、高安宅で清原日出夫や黒住嘉輝と会い、黒住のアパートに泊ったところから始まる。
楽しげに朝食の世話をしてくれる黒住嘉輝君の気配を背に、洗顔を終えたぼくは、放心したように二階の窓べに立ちつくした。大勢の人と会うために東京をたち、なつかしいいくたりと出会い、議論し、別れて来た数日の旅の思いが、いまようやく心を溢れだしはじめたようだった。

その後、「ぼくは京都にきて、また会えなかった一人のことを、ふと思った」という一文があり、そこから坂田博義への思いが綴られてゆく。追悼文の最後は、京都駅を発つ場面である。
短かい旅を終えて東京に帰るぼくを送ってわざわざ京都駅まで来てくれた黒住君と、ふと坂田君のことについて話が出たのは、どうしたはずみからだったろうか。(…)
十一月二十八日、午後、急行第一なにわの乗客となり、ぼくは京都を離れた。とうとう会えずに心をのこしてしまった坂田博義君が下京区の自宅で急逝された時刻と知らずに。

こうして、二人はすれ違ったまま、ついに一度も会うことがなかったのである。この文章から8年後の1970年、小野も交通事故により34年の生涯を閉じている。

posted by 松村正直 at 23:43| Comment(0) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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