2013年08月15日

苦楽園探訪(その6)

現在「海南荘」の名残りをとどめているのは、「苦楽園四番町公園」に立つ下村海南の歌碑だけである。昭和12年にこの歌碑が建てられた時のことを記した海南の文章があるので、見てみよう。「海南荘の歌碑」という題で、随筆集『二直角』(昭和17年)に収められている。

海南はまず、自分が東京へ転居することになり、海南荘は「世界の帽子王」掘抜義太郎が買い取ったことを述べ、その後、次のように書いている。
僕の遺言の中に歌碑を建てるところが二ヶ所ある。その一ヶ所が永住の地ときめてあつた海南荘である。いよいよ去るからには生前に歌碑を建てておきたいといへば、それは私の方で建てませう、ついでに入口へ海南荘といふ道しるべの石も建てませうといふ。さうなると話がとんとん拍子にすすむので、親友俳人飯島曼史宗匠夫妻が建碑の労を引受ける事になる。

こうして、堀抜や飯島の協力により海南自筆の歌碑が建てられたのである。その喜びを、海南は10首の歌に詠んでいる。その中から3首。
吾が歌の碑石見いでむとわが友は石屋をめぐる春の十日を
春十日たづねあぐみし帰り路にふと見いでたる庵治(あぢ)の青石
われ去るもここに建ちにし歌の碑はとはにのこらんか海南荘に

海南荘は堀抜が住んだ後、戦後は大阪市交通局の保養所「苦楽園荘」として使われていた。しかし、平成に入ってから取り壊され、今では「オールド&ニュー苦楽園」という分譲住宅地となり、歌碑だけが残っているというわけである。

posted by 松村正直 at 01:15| Comment(0) | 高安国世 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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