海南はまず、自分が東京へ転居することになり、海南荘は「世界の帽子王」掘抜義太郎が買い取ったことを述べ、その後、次のように書いている。
僕の遺言の中に歌碑を建てるところが二ヶ所ある。その一ヶ所が永住の地ときめてあつた海南荘である。いよいよ去るからには生前に歌碑を建てておきたいといへば、それは私の方で建てませう、ついでに入口へ海南荘といふ道しるべの石も建てませうといふ。さうなると話がとんとん拍子にすすむので、親友俳人飯島曼史宗匠夫妻が建碑の労を引受ける事になる。
こうして、堀抜や飯島の協力により海南自筆の歌碑が建てられたのである。その喜びを、海南は10首の歌に詠んでいる。その中から3首。
吾が歌の碑石見いでむとわが友は石屋をめぐる春の十日を
春十日たづねあぐみし帰り路にふと見いでたる庵治(あぢ)の青石
われ去るもここに建ちにし歌の碑はとはにのこらんか海南荘に
海南荘は堀抜が住んだ後、戦後は大阪市交通局の保養所「苦楽園荘」として使われていた。しかし、平成に入ってから取り壊され、今では「オールド&ニュー苦楽園」という分譲住宅地となり、歌碑だけが残っているというわけである。