あれから、もう3年が過ぎたのだ。
河野さんにはお墓がない。遺骨はまだ永田家にあるのだろう。お墓があればお墓参りに行けるのにと思ったりもするのだが、それは河野さんの望まなかったことだ。
喪(も)の家にもしもなつたら山桜庭の斜(なだ)りの日向に植ゑて
『蝉声』(2011年)
最終歌集『蝉声』には、こんな遺言のような一首があり、現在、永田家の玄関近くの斜面に桜が一本植えられている。これが河野さんのお墓代りと言っていいのだろう。
お墓の代わりに桜をという話は、河野さんが長いこと言い続けていたことらしい。それは乳癌になる前からのことである。
三年まへの遺言を子らにくり返す墓はいらない桜を一本
『家』(2000年)
初出は1998年の「短歌研究」なので、まだ元気だった頃である。
そして、この考えは、もともとは河野さんの祖母のものであった。河野さんのエッセイ集『桜花の記憶』の中に、こんな文章がある。
私が死んだら、どこの墓に埋められるのだろうと時々考える。私は、どこの家の墓にも埋められたくない。
「婆ちゃんが死んだら、裏の畑に埋めて桜の木ば一本植えて欲しかね」と、生前の祖母がよく言っていた。彼女は九州で生まれて滋賀県で死んだのだが、どこの家の墓にも入りたくない私は祖母のように、裏の畑の桜の木の下を自分の墓にしたい気がしきりにする。
裏の畑の一本の桜の木の下。それは、おそらくかなえられない夢でしかないだろう。祖母がそうだったように。祖母が生きていて、裏の畑の桜の木のことを話していた時、それは実現可能な夢のように私は考えていたのだが。
初出は1989年の「京都新聞」。
実際に亡くなる20年以上も前から、河野さんはお墓の代りに桜をと思い続けていたのだ。そして今、その願いは叶えられている。