2013年07月27日

『純白光』のつづき

後半(7月〜12月)の中から10首。
西瓜の種ぷつぷつ皿に出すことも一人では全(また)くおもしろからず
わが顔は湯気にかくれて笊盛りの玉蜀黍を家族へ運ぶ
その名前出てこぬ人の顔のみが大きく浮かぶ夜の頭に
みつばちのやうにお尻をふりながら向日葵の迷路ゆく子どもたち
木犀のなかに犀ゐて秋天に去りゆくものの足音を聴く
走る犬見たくて〈ドッグ・ラン〉へ行く今日の予定は猫には言はず
白鷺を舳先に乗せて行く舟の男のからだ傾かず立つ
飛行機のなかの子どもが手に握るその飛行機のなかなるごとし
若武者の林檎と修験者の柿とわが家にて逢ふ時雨降るけふ
心ここにあらずといへどはじめから心はどこにあるかわからず

短文と短歌の組み合わせや距離感も、いろいろなパターンがあって面白い。
短文では8月23日のものが特に良かった。飼い猫の「たますけ」の話。
たますけは蝉取りに夢中だ。身体が弱った蝉がベランダ付近に飛んでくるので、それをジャンプして捕まえる。捕まえた蝉は必ず明子の部屋に持ってゆく。彼女が捨て猫だったたますけを拾ってきたからか、それとも、はじめて蝉を捕まえたときいちばんほめたからか。今日も一匹。その部屋に、もう明子はいないのに。

2013年7月3日、ふらんす堂、2000円。

posted by 松村正直 at 22:43| Comment(4) | 歌集・歌書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
たますけの様子が、短い文ながら

よく伝わってきました。

(蝉を猫が捕ってきた場合、取り上げて逃がせばいいのか、もうあげてしまえばいいのか、夏の時期、よく遭遇します。)
Posted by モリ at 2013年08月04日 22:12
猫と言えば、永田家の飼い猫だったトムのことを思い出します。紅さんのエッセイにこんなのがありました。

「二年前、母が化学療法のために数日入院した。家に戻ってしばらくすると、母の枕元にきれいな赤茶色のモグラが置かれていた。ツヤツヤとした大きなモグラで、銜(くわ)えて運ぶのも一苦労だったろう。トムは飼い主の状態が分かるのだと思う。調子が悪そうだから、何か元気になるものでも持っていってやろう、と思い立って出かけたのだろうか。」
Posted by 松村正直 at 2013年08月05日 09:35
なかなか、これは胸に来る文で、ゆっくり味わいたいと思います。

書いて下さって、ありがとうございます。

今、ぱっと思いつくままにお返事しますと、

トムは私は見た事があるのですが、大変失礼ながら、もわっとしていて、

トムトムというわりに、そんなすごくかわいいとは思えず、

「あほやなあ、どこの家でも自分とこの猫が一番かわいいと思ってるんや」

という裕子さんのいつもの調子の声が思い出されます。
Posted by モリ at 2013年08月07日 00:48
僕も実家では猫を飼っていたことがあり、
ペペ、ミミ、アマと、それぞれに思い出があります。
Posted by 松村正直 at 2013年08月07日 22:18
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