2013年06月19日

『江戸の数学教科書』のつづき

江戸時代に独自の発展を遂げた「和算」は、その後どうなったのか。

明治5年に学制が発布された当初、日本では和算による数学教育が進められるはずであった。
新政府は、和算家に教科書の編纂を命じた。しかし、その計画は途中で頓挫している。結果的には欧化政策の流れに逆らうことができず、西洋式の数学(洋算)を学校教育に導入することになった。250年の歴史を誇る和算は、この決断によって、終焉に向かうことを余儀なくされたわけだ。

明治維新以降、こうした西洋文明と日本の伝統との相克は、科学技術、芸術、文化、思想、生活様式といった様々な場面で行われてきた。食においては、西洋料理を日本風にアレンジした「洋食」が誕生し、歌曲においては、外来の讃美歌に対抗して新たに「唱歌」というものが生み出された。

そして、「和歌」もまた変革を遂げて「短歌」に生まれ変わったのであった。7月6日の勉強会では、おそらくそのあたりの話が中心になるだろう。講師の安田寛さんから届いた講演の概要には次のようにある。
幕末から明治にかけてそれまで連綿と続いた歌の伝統が崩壊しかねない危機が発生した。対処できなかったら伝統が消失してしまう。そんな時代にあって、新しい伝統が創出されるまで橋渡しとして重要な働きをしたのが実は御歌所に連なってゆく歌人たちであった。これまでほとんど注目されることなく今日まで至っている彼らの危機対応の足跡と功績とを辿ってゆく。

和算も洋食も唱歌も短歌も、それぞれ別々の話のようでいて、実はみな同じ時代の影響を受けているのである。

posted by 松村正直 at 05:02| Comment(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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