ところで「短歌研究」連載の野口あや子「かなしき玩具譚」が絶好調だ。今時の女子の玩具である携帯電話やマスカラが歌の主体となって、〈主人〉である女子を冷徹に批評する。現代風俗にまみれた作品世界は一見饒舌だが、読後、そのざわめきは消え、野口の苛立ちだけが残る。加藤書(加藤治郎『短歌のドア』/松村注)のいう「作者の精神の働きへの興味」をかきたてるのだ。
この「読後、そのざわめきは消え、野口の苛立ちだけが残る」という指摘は、先日書いた「この書評を読むと、野口さんが何を考え、何に反発しているのかはよくわかる」という印象と重なるものだろう。
問題は、短歌作品においては作者の精神の働きが感じられるのは大事なことだけれども、書評ではそれだけで良いのかということなのだと思う。書評というのはあくまで本が主役であって欲しいというのが、僕の考えである。