2013年05月30日

「短歌人」2013年6月号

谷村はるかの時評「精神の働きに興味があります」の次の部分に注目した。
 ところで「短歌研究」連載の野口あや子「かなしき玩具譚」が絶好調だ。今時の女子の玩具である携帯電話やマスカラが歌の主体となって、〈主人〉である女子を冷徹に批評する。現代風俗にまみれた作品世界は一見饒舌だが、読後、そのざわめきは消え、野口の苛立ちだけが残る。加藤書(加藤治郎『短歌のドア』/松村注)のいう「作者の精神の働きへの興味」をかきたてるのだ。

この「読後、そのざわめきは消え、野口の苛立ちだけが残る」という指摘は、先日書いた「この書評を読むと、野口さんが何を考え、何に反発しているのかはよくわかる」という印象と重なるものだろう。

問題は、短歌作品においては作者の精神の働きが感じられるのは大事なことだけれども、書評ではそれだけで良いのかということなのだと思う。書評というのはあくまで本が主役であって欲しいというのが、僕の考えである。

posted by 松村正直 at 00:58| Comment(0) | 短歌誌・同人誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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