わたしと森林とのめぐりあいは、樺太の“オタスの社(もり)”から始まる。一九四五年の正月、東京から樺太に向けてわたしは出発したのである。
当時、中央気象台に勤めていた著者は「寒冷気象が生体に与える影響」の調査のために、終戦7か月まえの樺太へ出張したのだ。樺太のオタスの社で見たエゾマツの森と、そこで偶然出会って行動をともにした先住民族オロッコ(ウィルタ)の少年は、著者に強い印象を残したらしい。
「名前は何でいうの?」
「上村良太郎」
「え? カミムラリョウタロウ?」
わたしは思わず耳を疑った。何らかのオロッコ族らしい名前を予想していたわたしには、いかにも平均的な日本人の名前であるのが妙に思われた。
十歳くらいのこの少年は、巧みにスキーを操って、著者を先導するように森のなかを進んでいく。途中、一緒におむすびを食べたりして、半日の森林行を終える。その後の別れの場面が美しい。
わたしは凍りついた川に再び臨んだ。少年の方を振り向くと、まだ彼は入口のところに立ってこちらを見ていた。
わたしは手を振った。少年はそれに答えて手を振ってくれた。わたしはホッとした気持ちになった。と同時に目頭が熱くなるのを覚えた。わたしは振り切るように、川の向こう岸を見た。(…)
川の氷原を渡りながら、何回となくオタスの杜を振り返ってみた。森と部落とがいつまでもわたしを追いかけてくるような風景を感じた。少年はまだ手を振っているかも知れない……。
戦争中、それも大戦末期のできごととは思えない温かさと人間味に溢れた場面だろう。この半日の出来事が、著者のその後の人生を決定づけたのかもしれない。
この話には、後日譚がある。
著者は1982年に網走を訪れ、ウィルタの民族衣裳、刺繍、狩猟器具などを展示する資料館「ジャッカ・ドフニ」(現在は閉館)を見学する。そして、当時館長を務めていたダーヒンニェニ・ゲンダーヌと話をするのだが、そこで「上村良太郎は、終戦後しばらくして亡くなりました」という話を聞かされるのであった。