「塔」4月号の誌面時評で新井蜜さんが、この拙文について触れている。
二月号で目立ったのは松村正直氏の評論「鯨の歌を読む(前編)」である。万葉集から現代短歌までの広い範囲の中から鯨を詠んだ歌を選び出して論じている。例歌を探し出すのには時間が掛かったのではないかと推察する。このような評論を書く際に和歌や短歌のデータベースが整備されていたら便利で有用だろうと思う。
話はこの後、「塔」の電子化やネット配信といった話題へ続いて行くのだが、これを読んで、何と言うか、非常に違和感を覚えた。書いていることはよくわかるし、実際にそういうデータベースがあれば便利だろうとは思うのだが、僕のやりたいこと、やっていることは正反対なのだ。
例えば、山登りを楽しんでいる人に、「山頂までロープウェーで行けたら便利ですね」と言ってみても、たぶん仕方がないだろう。そういう違和感を覚えたのである。
もちろん、それは僕の書いた文章に問題があって、僕の感じた魅力や楽しさが十分に伝えきれなかったわけで、そのことを残念に思う。
例えば、今回僕自身が一番印象に残ったのは、吉植庄亮の『海嶽』という歌集である。これは、昭和16年に、当時国会議員であった庄亮が北千島視察団の一員として千島列島を見て回った時の歌を収めている。ここに、択捉島で見た鯨の解体場面が出てくるのだ。
『海嶽』は、今ではほとんど取り上げられることのない歌集と言っていいだろう。それはたぶん、歌集の内容がつまらないからではない。千島列島という、今では触れにくく、関心も薄くなってしまった土地が題材になっているからであり、大日本歌人協会の解散をめぐる問題も含めて、負の歴史の一部となってしまっているからである。
そういう歌集を再発見する喜びは、短歌のデータベースで「鯨」を検索して、それでヒットした歌を引いてくる便利さとは、まるで違うものなのだと僕は思っている。
思いがけない横道にでくわしたり、自からそれてみたりするたのしさが。三月中せっせと図書館がよいをしましたが目的は当然ながらそれを膨らませてくれるような記事をみつけたときの「もうけ!」感。ひとりでニコニコするようなこともありました。だからと言って私は課題が終わればそれでお終いですが、そこからまた新しいテーマを見つけることもあるでしょう。自分の研究とはそういうことだと思いました。
塔事典のおかげでひとつ良い経験をさせてもらいました。
将棋や囲碁と違って、こればかりはコンピューターに勝ち目はないでしょう。次元の違う話ですけど。
将棋では今ちょうど、コンピューターとプロ棋士の5番勝負をやっていますね。現時点で人間の1勝2敗。