私の生まれ育った東京の郊外では、こうした放浪芸はほとんど見たことがなかったように思う。だから懐かしさは感じないが、とても興味を引かれる。著者は芸能巡りの動機について、俳優の仕事に「一種のよりどころが欲しかった」と書いている。
しかし、そうした芸能は当時既に全国的に衰退していく状況にあった。
日本の放浪遊行の芸能は、宗教性に裏うちされていて、多く祝福の祈祷と荒神の祓いを行うものである。(…)そしてその世の中の信仰が、ここへ来て急速に薄らいで来たのにつれて、そういう芸能もほとんど影をひそめた。カミもホトケもあるものかという社会に、神の来訪の芸能は無用なのだ。
しかし、著者はそれをいたずらに嘆くことはしない。過去に対する郷愁に浸ったりはしないのだ。それは、著者自身が現役の芸能人だからである。
浮沈興亡のはげしい芸能の、その本質は、常に現在形であるということ――過去や未来の中に生きるのではなく、当代の観衆の求めの中にのみ、芸能の花は咲かねばならないということなのだ。
この姿勢こそ著者の真骨頂なのだろう。「芸能の場合、亡びたのは、なにはともあれ、民衆が捨てたからなのである。つまらないから捨てたのだ」という言葉は、読む者にずしりと重く響く。
2006年8月17日、岩波現代文庫、1200円。