その中で東郷さんは、拙著『短歌は記憶する』にも触れて、次のように書く。
完全な戦後世代で戦争の記憶などない川本と松村が、そろって短歌と先の大戦を中心的なテーマとするのはどうしてだろうか。/それはおそらく川本も松村も近代短歌を自己の創作基盤として選んだからではないだろうか。現代短歌ではなく近代短歌をである。
「現代短歌」ではなく「近代短歌」を基盤にしているというのは、なかなか面白い指摘だと思う。このように言われても、別に悪い気はしない。
僕はそもそも近代短歌と現代短歌という区分自体についても懐疑的なのだが、それはともかくとして、近代短歌に心惹かれるものがたくさんあると感じているのは確かである。
短歌史を進化論のように捉えるべきではないというのが僕の基本的な考え方だ。「現代短歌」が「近代短歌」より優れているなんて、一体誰に言えるのだろう。