角川「短歌」1月号の座談会は「新しい歌とは何か」。
佐佐木幸綱・花山多佳子・川野里子・穂村弘・光森裕樹の5名が、それぞれ5首ずつの歌を引いて、歌の新しさについて論じている。
人選のバランスも良いし、話も面白くて示唆に富む。みなさん読み巧者で、歌の持つ魅力を最大限に引き出している。こういう座談会は読んでいて楽しい。
ただ、実のところ「新しい歌とは何か」というテーマ設定そのものには、あまり魅力を感じない。それは〈「新しさ」というのが特に求められる評価基準ではないという言われ方は、ここ数年されるようになってきてますね〉という花山さんの最初の発言に象徴されている。
もっとも、僕も以前から全く「新しさ」に興味がなかったのかと言えばそんなことはなくて、2003年4月に立ち上げた短歌評論同人誌「ダーツ」の創刊号の特集は「短歌の新しさとは何だ!」であった。
あれから10年。
時代も変ったし、僕の考え方も変ったということなのかもしれない。
たいへんにおおきな呈題で重要な思惟をもたらす。わたしは長年、工芸作家としてたずさわってきたのだがひとりの芸術家として短歌にも通じるものがある。藤田嗣治の絵をみていたらつくづく創造の積み重ねであることがわかる。即ち常に新しさを求める創作の喜びがある。彼は天分があり努力というよりもこの喜びをよく知っていたアーチストであった。新しいばっかりいっていて、いわゆる目高く手おそまつの輩の多いことか。本物の創造とは熟練の次にくるものである。若いからとかのあやしげな未熟に真の新しさはないと思わねばならない。歌が熟練してこそ黎明があるのである。人それぞれに他人には負けない良い個性をもっている。この個性におのずと生まれる創造こそが新しい光芒の歌をつくるのである。その時代に生きていれば自然に現代の感覚が宿るのである。また芸は人だから浮薄なものに優れた新しい歌は生まれない。