2013年01月12日

「短歌研究」2013年1月号

「歌は時代を生きる」という特集に、14名の歌人が作品10首+エッセイを寄せている。

その中で来嶋靖生氏の「歌う歌 歌えぬ歌」と題する文章が気になった。
さて歌は時代とともに生きる、というのはその通りだが、日本人にとっての歌は、短歌だけではなく、もっとひろく詩、俳句、川柳なども含めて考えるべきであろう。さらにまた文芸だけでなく音楽の歌も併せて考えるべきであろう。むしろメロディーのつく歌のほうが理解の範囲は広い。私は幼児の頃から両方の歌を友として育ってきた。しかも時代が時代だから童謡唱歌はもちろん、軍歌や戦時歌謡、流行歌などが愛唱歌の中心を占めてきた。

「時代が時代だから」というのは1931(昭和6)年生まれの氏が育った時代のことを言っている。これに続けて来嶋氏は次のように書く。
近頃歌人と軍歌について言及する文章を散見するが、私の読むかぎりいずれもピント外れで話にならない。やはり戦時の空気を吸っていない人には通じないようだ。已むを得ぬことではあるが。

この論理には、どうも賛成できない。

その時代を生きた人にしかわからないことがあるというのは、確かであろう。しかし反対に、その時代を生きたがゆえに、かえって見えなくなっている部分というのもあるのではないだろうか。本当に私たちは、自分の生きた時代のことならわかると言い切れるのかどうか疑問である。

それに、もし来嶋氏の論理を認めるなら、誰も古典和歌のことなど語れなくなってしまう。その時代に生きていた人など今はいないのだから。それどころか、正岡子規のことすら論じられなくなってしまうだろう。

「ピント外れで話にならない」とまで言うのなら、具体的に誰のどの論のどこがおかしくて、自分はどのように考えるのか、まずは例を挙げて述べてみてはどうだろう。そこから、ようやく世代を超えた議論がスタートするのだと思う。

posted by 松村正直 at 07:01| Comment(0) | 短歌誌・同人誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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