渋滞にバス止まるたび大犬がかたへの視野にあらはれてくる
思はざるところにメトロの入口があれば降りゆく夜を別れて
しばらくは渚のかぜに吹かれゐるごとくに瞑る地下のホームに
ふつくらと苔にどんぐり埋まりをり冬場れの日の椎の木の下
焼け出され金瓶に来し妻と娘(こ)の影すらあらず歌集『小園』に
米はまづネーミングが大事といふ話(はなし)しつつ山形の蕎麦を味はふ
いつごろか息子の鼻の隆起してわが幼子はゐなくなりたり
かたはらに老女の日傘たたまれて欅通りにバス現はるる
颱風に電車とまりてそれよりは見知らぬ人らと夜をさまよふ
秋の寝覚めのテレビには見るはるかなるカリフォルニアの山火事のいろ
2007年1月〜12月に「歌壇」に連載された30首を中心にまとめた第9歌集。
398首を収める。
日常の何でもない場面のちょっとした感じや味わいを詠んだ歌が多い。
こうした微妙な感覚を言葉でとらえるのは、実は非常に難しい。
例えば、2首目は「あれば」が大事。ここが「ありて」となるとダメ。
10首目は「テレビには見る」がいい。「テレビに見る」ではダメなのだ。
1首目の「かたへ」、7首目の「かたはら」といった意識の向け方も、作者らしいところ。
中心ではなく周辺の、ややぼんやりした部分を詠むのが得意なのである。
うらうらと兵児帯ひきずりつつ歩くマンション四階の独居老人
ひきずられてゆく兵児帯に従(つ)きあるく子でありしかな猫のごとくに
この2首だけではわかりにくいが、父を詠んだ歌である。
後に詠まれることになる
老いて父は逝きにしものを若き父のおもかげのみのまざまざとして
幼くてわれは掴みき若き父が畳に引き摺る兵児帯の先を
「短歌研究」2011年9月号
といった歌とあわせて読むと、しみじみとした気持ちになる。
「兵児帯」は作者にとって忘れられない父の記憶と深く結びついているのだろう。
2012年8月20日、本阿弥書店、2600円。