この論考を読んだのだが、結局何が言いたいのだかよくわからなかった。しかも、6ページの文章を書いてきた挙句に、
金井の文章を読み、それから「風流夢譚」をひさしぶりに読みかえし、最初しばらくはなにやらむかっ腹が立ったけれども、やがて深いもの哀しさと脱力感に襲われたのであった。
と述べるのである。これでは、読んでいる方が脱力してしまう。
島田は、金井が取り上げた河野裕子の歌〈こゑ揃へユウコサーンとわれを呼ぶ二階の子らは宿題に飽き〉を引いて、次のように書く。
金井が文中に掲げた河野の歌は毎日新聞短歌欄の新刊紹介に引用された、この一首だけである。(…)いくらなんでも一首だけではフェアではないと思うが、これは短歌サイドにいる者の身びいきかも知れない。いやしくも短歌が文学を名乗るなら一首一首のテキストで勝負せよ、という正論を金井は説いているわけだから……。掲出歌は幸せな主婦の何の変哲もない日常報告の域を出ていないし、「大衆に支持される巨大で歴史的な言語空間であることを踏まえたうえで特別な言葉を書きつけることがまかり通る私的空間」だけに通用する言葉とされてもしかたがない。
ずいぶんな言い方をするものだなあと思う。
本当にこの歌は「幸せな主婦の何の変哲もない日常報告」の歌なのか。
それで、本当にこの歌を「読んだ」と言えるのだろうか。
こゑ揃へユウコサーンとわれを呼ぶ二階の子らは宿題に飽き 河野裕子
こういう歌を平明でだれにでも解かる歌というのだろう。あたたかい一家庭を歌っている。子供たちは宿題するのに飽きて母になにかおやつをもってきてと言わんばかりの甘えである。ユウコサーンが面白い。秀歌とはこのような平凡のなかに非凡が光っている。才能のないものほど鎧ばってごてごてするものである。作者の求める歌が理想が良く見える。塔、の歌らしい歌。
今日のブログに続きを書きました。
「塔、の歌らしい歌」かどうかは、わかりません。