賛成するにせよ反対するにせよ、意見を言うというのは大事なこと。
・三枝昂之「業界内の必然、外から見える不自然」(角川短歌年鑑平成25年版)
・川野里子「世界への断念、突出するトリビア」(角川短歌年鑑平成25年版)
・島田修三「もの哀しさについて」(角川短歌年鑑平成25年版)
・沢口芙美「厳しい自己批評の目を」(「歌壇」1月号)
このように数多くの意見が出ることで初めて、問題の本質が明らかになっていく。それは短歌界にとって、きっと良いことなのだと思う。
「歌壇」1月号では、他にも本田一弘さんの〈「言葉(けとば)」の器〉が面白い。東北方言を取り入れた短歌を例に挙げて、〈濁音にくぐもる「言葉」そのものが東北人のアイデンティティなのだ〉と述べている。
おととい紹介した谷村はるかさんの論と正反対と言ってもいい評価なのだが、どちらの言い分にも説得力がある。本当に大事な問題というのは、きっとそういうものなのだろう。どちらかが正しくて、どちらかが間違っていると単純に決められるのであれば、誰も迷ったり考えたりする必要はないのだから。
僕がもし短歌総合誌の編集者だったら、谷村さんと本田さんに誰か司会の人を加えて、座談会をしてもらう。きっと、面白くて大事な話になるだろう。しばらく、そんな空想に浸ってしまった。
金井美恵子の短歌批判というか、歌壇批判について、関心を持って歌人側からの反論を期待しておりましたが、まだ本格的な反論のようなものは読んでおりません。「角川短歌年鑑平成25年版」はぜひ読みたいと思います。
ただ金井の過激で挑戦的な文章に引き出され、感情的な反論をしてもあまり建設的な議論にはならないように思います。
金井の小説は「文章教室」以外に読んだことはありませんが、今回の批判の文章や彼女の小説の文章から言えることは、次々とわいてくる、あるいは同時的に起こってくる感情や思考を、できるだけ文章で表そうとする、その結果あのように行きつ戻りつや、副文挿入の異常に多い文章となる。それに対して、短歌はむしろパラダイム優位な表現となる。読み手は書かれなかったことも、その内容から読み取ろうとする。詠み手と読み手の合作のような趣があります。なれ合いと言われればそうとも言えるでしょう。多分金井はこういった状況を「超大衆的な定型詩歌系巨大言語空間」と呼び、そういう言語空間に寄りかかることに強い嫌悪感を示しているのでないでしょうか。
散文がシンタグム優位で、短歌など短詩系文学がパラダイム優位などと、簡単に割り切るつもりはありませんが、このような視点も金井の短歌・歌壇批判を考える上で必要かと思いました、
コメントありがとうございます。
散文と短詩型文学の違いというところまで視野に入れて捉えると、なかなか面白い話になりそうですね。