もう四十年近く昔のことで、僕自身が大体忘れてるから何とも言えないなあ。ただ、一つには、僕は遅れて歌を作り始めた、二十代の後半のこと。だけどこの歌集にある歌って、十代の感じでしょ。(…)
と述べている。
この「遅れて歌を作り始めた」という意識は、小池にとってかなり決定的な意味を持っているように感じる。小池(昭和22年生まれ)の同世代や少し上の世代の歌人の多くが十代〜二十歳にかけて短歌を作り始めているのに対して、小池は始める年齢が遅かった。
それは年齢だけのことではない。永田和宏(昭和22年)や三枝昂之(昭和19年)らが学生時代に前衛短歌の最後の影響を強く受けたのに対して、小池は時代的にも「遅れて」しまったのであった。
昭和52年頃の思い出を、小池はエッセイ「昔話」の中で、こう書いている。
短歌のシンポジウムのような会合にはじめて出てみたのもこのころだったと思う。場所も時期ももはや覚えていない。客席のいちばんうしろから壇上の永田和宏や河野裕子を仰ぎ見る思いで遠望した。壇上までの距離は、船岡から東京までくらいにも遠かった。
同世代の歌人たちの活躍を眩しい思いで見ていた小池光の姿である。その距離感を、ふるさとと東京の距離に喩えているところにも、小池らしさがよく表れている。(おわり)
私も短歌を始めたのは大学院の2年目で、
23〜24歳になろうとしているときでした。
その頃は一つ下の大塚寅彦が「刺青天使」を出し、
二つ下の
荻原さんが、
天才歌人として角川短歌の塚本欄を荒らし、
1つ上の中山明が「猫1234」を出し、
初めて「ゆにぞん」のシンポジウムに出たときは、
大塚さんや中山明や、坂井修一をとおくから、
ちょうど、小池さんが永田・河野を見ていたように、
見ていたのでした。
私が初心のとき
小池さんの第1歌集第2歌集に
はげしく感応したのは、
小池さんのなかの「遅れた」という意識が、
まったく自分のもののように感じられたから
かもしれません。
小池論を書く時にこの「遅れた」意識というのは、
とても大切なポイントだと思いました。
「遅れ」そのものは何年かすれば追いつくことが可能で、はたから見れば区別もつかなくなるのでしょうが、「遅れた」という意識は後々までけっこう残るような気がします。
そのあたりが、後の世代の人にとっては見えにくいところであり、でも歌人論などを書く際には大事になってくる部分なのだろうと思っています。