2012年11月23日

遺棄死体

遺棄死体数百といひ数千といふいのちをふたつもちしものなし
             土岐善麿『六月』

これは、昭和15年に桐谷侃三(ペンネーム)という人物が善麿批判をする際に取り上げた一首として知られている。桐谷はこの歌を、日本軍の残虐性を非難した内容と読んだのであった。

これに近い読みは、現代でもなお続いている。戦前とは評価が正反対になるが、この歌を命の大切さを詠んだ一首と読み、そこに善麿のヒューマニズムや反戦思想を読み取るのである。

そうした風潮を覆したのが、2005年に出た三枝昂之著『昭和短歌の精神史』であった。三枝は当時の新聞記事などをもとに、まず「中国軍兵士の遺棄死体は、日中戦争を通じて日本軍を悩ませた」という事実を明らかにする。その上で、
「遺棄死体数百といひ数千といふ」。遺棄する主体は中国軍である。表現が伝えるのは数百数千という多数の兵士を遺棄することへの憤りである。だから「いのちをふたつもちしものなし」と、一人一人はかけがえのない個人ではないか、と遺棄する側に対して詰問調になるのである。

と結論づける。つまり、死体を遺棄する中国軍への批判の歌と読んだのだ。
この論理の展開は実に鮮やかだ。

三枝は2001年刊行の共著『昭和短歌の再検討』所収の「土岐善麿、昭和二十一年の黙思」でもこの歌について触れているが、そこではまだこうした読みには至っていない。その後の進展が著しいのである。

今日、古い「アララギ」(昭和12年11月号)を読んでいて、ある歌に目がとまった。アララギの選者の一人であった竹尾忠吉の一首である。
遺棄したる死体数千といふ支那は戦死を如何に取扱ふならむ

これを読めば、死体を遺棄する中国軍を批判していることはすぐにわかるだろう。善麿の一首も、まずはこうした文脈で読むことが大切なのだ。

その上で、この読み間違えようのないストレートな竹尾の歌と、いろいろに読むことができる善麿の歌の差異について、考えてみるのがいいのではないだろうか。そうした手順を踏んで初めて、善麿の歌の本質が見えてくるのだと思う。

posted by 松村正直 at 00:43| Comment(6) | メモ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
三枝昂之はとんでもない間違いをしている。土岐は新聞社勤務だから三枝の指摘を待つまでもなく中国軍の遺棄死体のことは知っている。しかもアララギを読んでいたから竹尾の歌も知っていたはず。それを反戦ヒューマニズムの心で詠んだのが土岐だ。決して中国軍の死体遺棄を批判しているわけではなく、中国軍、日本軍を問わず戦場に遺棄された死体を通して、戦争の無意味さを詠んでいるのだ。三枝は「遺棄する側に対して詰問調になる」というが、土岐の歌をよく読んでほしい。土岐は「いのちをふたつもちしものなし」という。この「もちしもの」を理解していない。詰問調なら「もつものは」だ。最近は『昭和短歌の精神史』もメッキがはげて綻びが指摘されている。再考されたい。
Posted by 隼ファルコン at 2013年07月30日 23:40
隼ファルコン様

ご意見ありがとうございます。こうしていろいろな意見が出ることこそが、『昭和短歌の精神史』の一番の功績なのだと思っています。「客観的で正しい短歌史」などというものがあるわけではなく、それぞれの人がそれぞれの立場で論じ合う中から、短歌史というのは見えてくるのでしょう。

『昭和短歌の精神史』については、何もすべての記述に全面的に賛同しているわけではありません。既に2007年2月号の角川「短歌」の歌壇時評「正述心緒の魅力と危うさ」の中で、「正述心緒」という評価基準に頼ることの危うさについて書きました。

善麿の『六月』を読めば、それが「反戦ヒューマニズム」という一言では括れないことがよくわかります。〈紀元節空青くあたたかに晴れたれば日本国民としての意識を強くす〉〈いかに論じいかに議するとも新しき東亜は建設せざるべからず〉といった時代の空気も踏まえて読む必要があると思っています。
Posted by 松村正直 at 2013年07月31日 08:47
小生の不躾なコメントに対する迅速なご返答に感謝いたします。浅学のため角川短歌掲載の貴文を目にしておりませんが、貴殿程の方が三枝の解釈にもろ手を挙げて賛成するとも思えません。また土岐の「六月」収録の短歌をご教示頂き有難うございます。
三枝の指摘を待つまでもなく土岐には後に時代圧力に屈した歌、時局便乗的な歌もあり、土岐に明確な「反戦」の意識があったとは思えませんので、先般の小生コメントに書いた「反戦ヒューマニズム」の「反戦」は筆の勢いであったことをお詫びします。
ただ竹尾の歌と違い、土岐は「遺棄死体」というショッキングな言葉によって読み手を引きつけ、「数百、数千」と言って転がる死体と戦争の酷さを読者に突き付けているのであって、当時の典型的な知識人として「いのちをふたつもちしものなし」と結んでいるわけですから、これを「死体を遺棄する中国軍への批判」とすることはできないでしょう。
三枝の論理は「はじめに結論ありき」で、レポートや論文を書くときはそれで良いとしても、結論に合わせた都合のよい資料のみを提示して独断的に判断する姿勢は、少なくとも「昭和短歌の歩みをあるがままに描きたい」という趣旨とはかけ離れていると考える次第です。
小生が貴殿に対し「再考されたい」と言ったのは、三枝の説明を引用して「この論理の展開は実に鮮やかだ」とした貴殿の見方です。
Posted by 隼ファルコン at 2013年08月05日 14:11
隼ファルコン様

ご意見ありがとうございます。
「遺棄死体」というのは、ブログの他のところでも書きましたが、当時はよく使われていた言葉なのですね。ただし、その事実を僕は『昭和短歌の精神史』を読んで初めて知りました。

三枝さんは「当時、「遺棄死体はどのような形で話題になったか。そこに迂回して考えたい」と述べて、当時の新聞報道などから「遺棄死体」という言葉の意味や使われ方を明らかにしています。そうしたアプローチの仕方は、それまでにはあまり見られなかったものだと思います。

「鮮やかだ」というのは、必ずしもその論旨に全面的に賛成しているという意味ではありません。賛成できるところ、できないところ、それぞれあります。それで良いのではないでしょうか? 多くの人がそれぞれの立場から、論じ合う価値のある一冊だと思っています。
Posted by 松村正直 at 2013年08月07日 22:12
松村様
ご丁寧な返答ありがとうございます。
遺棄死体については「遺棄死体ある場所に・・・」の香川進の歌も、忘れてはならない歌ですね。
これにて遺棄死体の話は終わりにしましょう。
貴殿のような誠実な方と意見を交わすことができたことを嬉しく思います。
Posted by 隼ファルコン at 2013年08月11日 18:57
隼ファルコン様
「遺棄死体ある場所に立てし枯草の動くみゆそこを風過ぐる時」(香川進『氷原』)ですね。確かに、これも印象深い歌です。
Posted by 松村正直 at 2013年08月11日 20:27
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