昭和15年に出た土岐善麿の随筆集。
友人との気軽なやり取りや、書評、短歌や能のことなど、いろいろな話が載っている。
昭和13年から15年の文章が集められており、日中戦争下という時代の空気が感じられるところが面白い。
例えば、昭和15年に出た斎藤茂吉の歌集『寒雲』の書評を引いてみよう。
斎藤茂吉君が『あらたま』以来最近二十年間も歌集を出さずにゐたといふことは、さう言はれてみると、それに相違ないが、考へて見ると、嘘のやうな気もする。茂吉の第12歌集『寒雲』は、歌集の刊行順としては『赤光』『あらたま』についで3番目に出版されている。そのことは知識としては知っているのだが、こうしてリアルタイムでの反応を読むと、その感じがとてもよくわかる。
今後一年に一冊ぐらゐづつ逆に二十年間を遡つて、歌集をまとめる計画といふことであり、それが実現したら、「斎藤茂吉」の精神史と共に、現代短歌史の一面をかなりはつきりと代表するものとなるであらう。今では茂吉の17歌集を年代順に通しで読むことができるのだから、随分と便利になったわけだ。(その分、作歌した時期のズレを考慮する必要はあるけれど)
善麿は『寒雲』に多く収められている日中戦争の歌について、こんなことを書いている。
(…)銃後にあつて、つとめて現地戦線の現実に交感しようとしてゐる態度は、謂ゆる実相観入の表現ともいひ得るし、それが何処かピントがはづれてゐるやうでありながら却つて真実のあらはれてゐる点、二ユース映画の与へる感動であり、その感動が茂吉的特異性をもつてあらはれてくるところに、戦争短歌の別趣な一面があるとしなければならない。この「何処かピントがはづれてゐるやうでありながら却つて真実のあらはれてゐる」という善麿の批評は、なかなか鋭いのではないかと思う。
陣(ぢん)のなかにささやかに為(せ)る霊祭(たままつり)二本の麦酒(びいる)ニュース映画を見て詠まれたこうした歌でも、茂吉は画面の中心ではなく、周辺や背後に映っているものを詠んでいる。そのために、撮影者の意図とは違う戦争の真実が、自ずから滲んでくるのであろう。
そなへありたり 『寒雲』
かたまりて兵立つうしろを幾つかの屍(かばね)運ぶがおぼろに過ぎつ
昭和15年5月18日、八雲書林、1円60銭。