今日の夕食後に食べた巨峰は長野県産だった。パックの包装に「JA信州うえだ」と印刷されていて、六文銭のマークが付いている。長野県上田市と言えば真田氏の城下町。六文銭は真田氏の家紋である。
包装には、他にも「JA信州うえだ 清水宣彦」というシールが貼られている。きっと生産者の名前だろう。最近、よくこのように名前が入っている商品を見かける。顔写真やコメントなどが添えられていることもある。
この「清水宣彦」という名前を見ていて、ふと短歌における固有名詞の働きについての考えが思い浮かんだ。短歌では固有名詞が効果的な働きをすることがしばしばある。「橋」ではなく「○○橋」と具体的な名前を出す方法だ。
その際、橋の名前が「永代橋」とか「五条大橋」とか「心斎橋」など有名なものである必要はない。誰も知らない橋でも良いのである。橋の名前が風土や歴史を感じさせるような趣きがあった方が良いのは確かだが、それも絶対の条件ではない。
要はどんな名前でもいい。うちの近くにある橋で言えば「綿森橋」とか「中郷橋」とか「墨染橋」で良いのである。その時に固有名詞の果たしている役割というのは、たぶん巨峰の包装に貼られた「清水宣彦」と同じなのではないだろうか。
私はもちろん、この清水宣彦さんのことを知らない。知らなくて構わないのだ。要は「誰かの名前が書かれていること」が大事なのであって、「誰の名前が書かれているか」は、さして問題ではないのである。
短歌に固有名詞が入ることで感じられる現実性。もちろん、それは歌の内容が事実かどうかといった話とはまた別のことである。