2012年10月02日

角川「短歌年鑑」1971年版


高安国世が亡くなったのは1984年。私はもちろん高安さんに会ったこともないし、リアルタイムで高安作品を読んだこともない。

そのせいばかりではないだろうが、高安作品が生前、どのように評価され、あるいはどのように評価されなかったのか、というのが今ひとつはっきりわからない。

高安さんの歌は前期、中期、後期と大きく変遷をしている。そうした変遷は当時どのように受け止められていたのか。そうした評価史みたいなことを知りたいと思う。

そういう意味で、角川「短歌年鑑」1971年版の座談会は非常におもしろい。巻頭に塚本邦雄・上田三四二・玉城徹の座談会「ことしの歌壇を語る」が載っていて、その中で高安作品について議論されているのだ。

第8歌集『虚像の鳩』(1968年)以降の高安作品について、上田三四二は、作品として疑問に思う点はあるとしつつも「移り方に高安さんとしては必然性がある」「高安さんの作風ということは感じる」と比較的好意的に述べている。

これに対して、塚本邦雄は「着目すべき作品がある」「高安さんの流動的な作風の一つの表れ」とした上で、決定的な文体を作らないのが高安の「強みでもあり、また逆の意味もあると思う」という微妙な評価。

玉城徹が一番批判的だろう。「完成などということは望まないという態度は必要」としながらも、「ある水準がきまってくるところがないと、ちょっと困る」「あまりにも流動的だという感じがする」と疑問を呈している。

「流動的な作風」というのは、高安さんに常に付きまとった評価であったのだろう。

posted by 松村正直 at 01:34| Comment(0) | 高安国世 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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