高安国世は長野県の飯綱高原に山荘を持っていた。京都の自宅からは400キロ以上の距離があるが、自分で車を運転して往復していた。それだけでなく、その高安山荘から、山中湖畔にある土屋文明の別荘、黄木荘を訪れたりもしていたらしい。こちらも片道150キロくらいはある。
高安が亡くなった際の土屋文明の追悼文「高安君の追憶」の中に、次のように書かれている。
四五年前、山中湖畔に、突然高安君が見えた。戸隠山麓の避暑地から、ドイツ製車を自ら運転してであった。その体力は先づ私を驚かせた。京都から戸隠への往復もその車でとのことで更に驚いた。山中には二度も見えたように記憶する。高安の載っていたのは外車だったようだ。どんな車だったかと言えばボルボである。(ドイツ製ではなくスウェーデン製)
(「塔」1985年7月号)
今度は土屋文明が亡くなった際に、高安和子の書いた追悼文を見てみよう。
飯綱に小さな山荘を持つようになっての一夏、先生が山中湖畔の別荘にお暮しになるので地図をたよりに出かけた。(…)五十過ぎての免許なので息子の文哉が命の万全を言って外車を買ってくれた。運悪く小さな故障を繰り返すので「ボルボ」でなく「ボロボ」と言うのだったが、この時はなかなか調子よく働いた。ボルボは当時「世界一安全な車」と言われており、万一の事故に備えてこの車に決めたようだ。
(「塔」1991年5月号)
高安の前半生は幼少時からの喘息もあって病弱な印象が強いが、五十代後半からの高安は、ボルボを運転して数百キロを走る、そんな健康的で活動的な姿を見せている。
(ふたりの没年を考えれば当然ありうるのですが)
なんか、変な感じですね。
高安さんの70歳没というのは、今では、ものすごく早すぎる感じです。
土屋文明(1890−1990)
高安国世(1913−1984)
文明は高安さんより23歳年上ですが、高安さんの方が6年早く亡くなっています。文明は『高安国世全歌集』(1987年)にも序文を寄せてますね。