堀田季何さんが、時評「短歌のくらくもさむくもないかもしれない未来(その3)」の中で近代短歌と現代短歌の区分に触れているのに注目した。最近ではあまり取り上げられない話題だろう。
堀田はまず、私の書いた下記の文章(『今さら聞けない短歌のツボ100』の「現代短歌」の項目)を引いている。
現代短歌という区分そのものが本当に成り立つのか、もう一度考え直す必要さえあるように思われる。現代短歌に「現代の短歌」という以上の意味があるとすれば、そこには近代短歌とは異なる、何らかのパラダイム転換に当るものがなければならない。しかし、それを明確に示すことができるだろうか。和歌→近代短歌→現代短歌といった、これまで漠然と信じられてきた進化論的な見方についても問い直す必要がある。堀田はこの文章に対して、ひとまず「尤もな論理である」と肯定する。その上で王朝和歌が「集団の詩型」であったのに対して、近代短歌は「われの詩型」であり、それが現代短歌では「われわれの詩型」になったという見取り図を描く。その上で、新たな現代短歌の区分として、次のような説を提唱するのである。
「われの詩型」と併存しながらも「集団の詩型」を取り込んだこの新たな詩型の萌芽、急増こそが現代短歌へのパラダイム転換であり、二十一世紀ゼロ年代こそが現代短歌への移行時期である。つまり、二十一世紀ゼロ年代に現代短歌が始まったと考えるわけだ。
私はこの説に十分納得したわけではない。短歌史を考える場合、誰もが現在起きていることを過大に評価しがちな傾向があるので、その点は十分に見極めなくてはならない。ただ、こうした新しい説が出され、そこからまた議論が起きるのは大切なことだと思う。
松村さんの「現代短歌」の項目は、短いながらも「何らかのパラダイム転換(中略)それを明確に示すことができるだろうか」という鋭い問いかけがされていて、目から鱗でした。それまでは、歌人のほぼ全員が戦争前後に現代短歌へ移行したという定説を信じているものと思っていたからです。
おっしゃるように、拙説の真偽が判明するのは先の事でしょうし、「われわれの詩型」も賛同者、実作者が今後も出続けなければパラダイムに至らずに一過性のブームで終わってしまうかもしれません。でも、私は篠説等の定説が信じられず(特に松村さんの文章を拝読した後は)、「今も近代短歌のままである」説か拙説かどちらかしかないと思うようになりました。後者は誰も唱えた事がないので、一度提示してみよう、と。
本当に有難うございました。
いつかお目にかかれます事を。
今朝の朝日新聞に批評家の濱野智史さんのインタビューが載っていました。その中で濱野さんは、小熊英二の言葉を借りて、「われわれ」の再生や「われわれ」の感覚について語っています。
そのあたりとも結び付くことなのだろうという気がしました。