金井美恵子の短歌嫌いは今に始まったものではなく、相当に根が深いようだ。
エッセイ集『本を書く人読まぬ人とかくこの世はままならぬ』(1989年)の中に俵万智歌集『サラダ記念日』の書評がある。その中で金井は短歌について次のように記している。
言うまでもないことだが、短歌というものは天皇を頂点とする文化のヒエラルキーにつらなる言葉によって形成される詩形で、浅田彰風に言うならば、さだめし、「土人の詩」ということにでもなろうか。初出は「文学界」1989年7月号。短歌のことを「土人の詩」だと言っている。今から20年以上前の文章であるが、おそらく短歌に対する認識はこの頃から変っていないのだろう。
ちなみに「浅田彰風に言うならば」というのは、同じ「文学界」の1989年2月号に載った浅田の次の発言を受けたものだ。
連日ニュースで皇居前で土下座する連中を見せられて、自分はなんという「土人」の国にいるんだろうと思ってゾッとするばかりです。昭和天皇の病気の平癒を願って皇居前広場に跪く人々のことである。前年の1988年9月19日の吐血から1989年1月7日の崩御に至るまで、こういった光景がしばしばニュースで報じられた。
そして、こうした人々の姿と短歌という詩形とが、金井の中では分かち難く結び付いているというわけである。
相当偏っている感じもありますけど
短歌をやっていると閉ざされているなーと思うことも多く、
こういう意見がおもてに出ると、かえってバランスというか
きついなあと思いながらも、ほっとするのが不思議。
僕も短歌や歌壇に対する批判がこうやって出るのは
基本的に良いことだと思っています。
ただ、問題なのは、せっかくの批判に対して誰も何も
言わないことですね。スルーするのが一番良くない。
それこそ「閉ざされている」ことになる気がします。