坂田の「実習日誌」はリアルタイムで誌面に掲載されたものではない。掲載当時(1961年9月号)、坂田は既に社会人1年目の生活を送っていた。教育実習に行ったのは大学3年の冬なので、約1年半も前の話である。
短歌とは何の関係もない「実習日誌」が掲載された理由については、坂田自身が編集後記に記している。
□大学三年の時、郷里で教育実習をした。その時の実習日誌をのせさせていただいた。今からみると随分恥ずかしいことを書いているが北国の田舎の様子を拙文から察していただけるとうれしい。繰り返しになるが、坂田はこの時、既に「株式会社マツダオート大阪」のサラリーマンとして働いていた。そんな彼が、一体どのような思いでこの「実習日誌」を「塔」に載せたのだろう。自分の選ばなかった教師という道を、あるいは夢に思い描いていたのかもしれない。
「実習日誌」が誌面に載ってから2か月あまり後、11月28日に坂田は自殺する。24歳。新婚の妻とお腹のなかの子を残しての死であった。
帰りきてまぼろしのごとき二人の部屋これは必ず守りぬくべし 『坂田博義歌集』
橋づめに石の獅子立つ難波橋 今日かなしまず吾れわたりゆく
うちつけに西陽さしこむ部屋に臥す妻おもいつつ働きており
さまざまの形の橋をわたりしがわたりて楽しき街あらざりし
いつよりのたてじわ切りきずさながらに蒼く額にきざまれたりし〈絶筆〉